「せかいのおきく」
(物語)22歳のおきく(黒木華)は武家育ちだが、今は貧乏長屋で父・源兵衛(佐藤浩市)と二人暮らし。寺子屋で子どもたちに読み書きを教えながら日々を暮らしている。そんなある日、おきくは厠のひさしの下で雨宿りをしていた紙屑拾いの中次(寛一郎)と、糞尿を売り買いする汚猥(おわい)屋の矢亮(池松壮亮)と出会う。中次はやがて紙屑拾いをやめ、矢亮と一緒に汚猥屋の仕事をするようになる。辛い人生を懸命に生きる3人は、次第に心を通わせて行くが、おきくはある悲惨な事件に巻き込まれ、喉を切られて声を失ってしまう…。
阪本順治監督の、オリジナル脚本としては初めての時代劇(原作ものかつ脚本を他人に任せたものでは「座頭市 THE LAST」がある)。しかも今どき珍しいモノクロ・スタンダード。
そして題材として出色なのは、主人公の男二人、矢亮と中次の仕事は、各家を回って排泄物を回収し、肥料として農家に売る“汚猥屋”である事。当然画面には排泄物(言い方を変えればウ〇コ)が盛大に登場する。それだけでなく、時には足蹴にされて頭からウ〇コを被るシーンまである。人によってはそんなシーンは勘弁して欲しいと思う方もいるだろう。
だがそんな尾籠なシーンがあるにも関わらず、映画はとてもピュアで、物語としては格調さえ感じさせられる、とても感動的な、本年度のベストとも言える秀作に仕上がっている。
(以下ネタバレあり)
映画は、序章と終章を含めて9つのエピソードを季節の移ろい毎に章立てで描いた、小説で言えば連作短編集のような作りである。これも面白い。
全編ほとんどモノクロだが、各章の末尾のカットだけカラーとなる。これがとても印象的。阪本監督によれば、各章の物語がここで終わるという事を強調する狙いと、これは昔の古い映画のような作品ではなく、今に通じる話である事を伝えたい為に部分カラーにしたとの事だ。
笠松則通撮影監督によるモノクロ・スタンダード映像はまるで墨絵のように端正で美しく、美術スタッフの頑張りもあってリアルで、昔の昭和20年代以前に多く作られた長屋もの時代劇(阪本監督も参考にしたという山中貞雄監督の傑作「人情紙風船」等)を思わせて感慨深い。
それだけに、各章末尾に登場するカラーの映像はハッとするほど美しく感動的である。特に1章末尾のおきくの着物姿が美しい。
時代は江戸末期、描かれるのは安政五年(1858年)から万延年間を経て文久元年(1861年)までの約4年間である。この時代はペリー来航に始まるアメリカとの通商条約締結、井伊直弼による安政の大獄、井伊暗殺の桜田門外の変と、歴史的に日本が大きく揺れた激動の時代だった。武士の時代もまもなく終わろうとしている。
しかし庶民にとっては関係のない事。映画の中でそんな事件はまったく語られない。日々を慎ましく生きる貧しい下層大衆の日常が淡々と描かれるだけである。
主人公、おきくの父・松村源兵衛は武士だったが、上司の不義を訴えたために武家屋敷を追い払われ、今は長屋暮し。それでも武士としての誇りは失っていない。
しかしおきくは、もう自分たちは武士ではない。長屋の住人たちと同じ、貧しい庶民だと自覚している。父に「明け六つになると、お父っさまはなぜ屁をたれるのですか」と言ったり、長屋の人たちの前で「もう、武家でも何でもない。今や、平気でクソとか屁とか言えるようになったのでございます」と、下品な言葉を平然と吐く。このシーンは笑える。
そして、汚猥屋の中次に対してほのかな恋心を抱いている。普通なら格式高い武士の娘と町民、その中でも最下層の汚猥屋との恋など絶対にあり得なかったはずだ。
しかし下品な言葉でも平気で言えるようになったおきくは、身分の違いなどどうでもいい、人は生まれながらに平等だ、との意識が芽生えたのだろう。
これはやがて到来する文明開化、自由平等社会の概念を先取りしていると言えるだろう。
源兵衛はそんなおきくの心の内を感じていたのだろう。便所で中次と出会った源兵衛は中次に、「せかいという言葉を知ってるか」と問いかける。そして中次に「惚れた女が出来たら言ってやんな。俺はせかいでいちばんお前が好きだってな」と言う。
正義感が強く、上司にも不実を訴え、世界にも目を向ける源兵衛だからこそ、身分の低い中次とおきくとの恋も容認しているのだろう。
親子共演のこの場面、本作の中でも印象深い名シーンだと言える。
ところがある日、源兵衛を憎む上司の部下たちに誘い出された源兵衛は藪の中で斬り殺されてしまい、父の元に駆け付けたおきくは喉を斬られ、声を失ってしまう。
失意で寝込むおきくだが、中次たちや寺子屋の子供たちや僧侶・孝順(眞木蔵人)らの励ましもあって、少しづつ元気を取り戻し、再び子供たちに文字を教えるようになる。
文字が書けない中次は、自分も文字を教えてもらおうと、大量の半紙をおきくに差し入れたりもする。
そんな中次の思いを感じてか、おきくは半紙に“忠義”と書こうとしてつい「ちゅうじ」と書いてしまい、恥ずかしくなって畳の上でゴロゴロ寝転がるシーンが可愛い。
ある日、お菊は意を決して中次の家に向かい、言葉が喋れないので必死に身振り手振りで想いを伝えようとする。やがて降って来る雪の中で抱き合う二人のシーンはとても美しく、本作中の白眉。
このシーン、セリフがない事、そしてモノクロ・スタンダードという事もあって、まるで戦前のサイレント映画を観ているかのようだった。
そう言えば、冒頭の黒味をバックに縦書きの白文字でスタッフ・キャストが紹介されるクレジット・タイトル、文字で紹介される各章のタイトル等もサイレント映画を思わせる。これは狙っての事だろう。
ラスト近く、孝順は「せかい」について子供たちに語りかける。このせかいに果てはない。ぐるっと回れば元の場所に戻って来ると言う。
そう、世界は広いのだ。中次も、寺子屋で子供たちと一緒に文字を習っている。いつの日か、文字を使っておきくと言葉のやりとりが出来る、そのせかいを夢見て。
ラスト、談笑しながらおきくと中次、矢亮の3人が林の道を歩いているシーンは魚眼レンズで撮影され、真っ直ぐな道を左からやって来て右方向に進むまでをワンカットで捉えている。
これも、せかいは丸い事を映像で示しているのだろう。印象的な幕切れであった。
全編にわたってウ〇コが何度も、盛大に登場する。大雨で長屋の肥溜めが溢れ、通路まで糞まみれになったりもする。また汚猥屋という職業に対する差別意識も容赦なく描かれる。ある武家屋敷の門番は矢亮に下肥の買取値が安いと難くせをつけ、肥え桶ごと矢亮を蹴り倒す。農家の主人は下肥の量が少ないとこちらもウ〇コを矢亮たちにぶっ掛けたりする。
それでも矢亮や中次たちはめげない。明るく、くったくなく生きている。人々が嫌がる糞尿のおかげで生活が出来てるのだし、そういう人たちがいるおかげで社会は回っている。感謝すべきだろう。
回収した下肥は畑の作物の肥料として再利用される。そうして育てられた作物は人の口に入り、また排泄される。言わば循環型社会である。今で言うSDGsの概念である。
そう言えば石橋蓮司扮する長屋の住人・孫七は「人は死んだら埋められ、土に帰る」とか言っていた。これも循環と言える。
ぶち撒けられる糞尿はまた、矢亮たち下層庶民の猥雑でたくましいバイタリティの象徴でもあるのだろう。しっかりと見据えるべきである。
この映画を企画した、本作の美術監督でもある 原田満生氏は、4年前に大病を患い、その後のコロナ禍もあって環境問題を考えるようになり、制作グループ“YOIHI PROJECT”を立ち上げて、長年タッグを組んでいて気心は知れている阪本順治に本作の監督を依頼したのだそうだ。
この映画はおきくや中次たちの青春映画でもあるが、自然も人も、死んでまた活かされる、大いなる自然の循環の摂理を人間はもう一度考え直すべきではないかという壮大なテーマも隠されている。これも原田氏の狙いだろう。
このテーマを完璧に生かし、優れた脚本、演出、映像美で描き切った、これは阪本監督の最高作ではないかと思う。見事。
おきくを演じた黒木華が素晴らしい熱演。本年度の主演女優賞はほぼ決まりである。中次を演じた寛一郎もベストの好演。無論糞まみれで奮闘する池松壮亮の熱演も言わずもがな。俳優がみんないい。
暫定ではあるが現在までのところ、本年度の日本映画ベストワンである。必見。 (採点=★★★★★)
(付記)
本作の特別ビジュアルとして、「この世界の片隅に」の原作者・こうの史代さんが描き下ろしたイラストも公開されている。
イラストに描かれたおきくが「この世界の片隅に」のすずさんを思わせる。どちらもタイトルに“せかい”がつくのも共通。
それだけでなく、激動の時代(幕末と第二次大戦)を生き抜く名もない庶民が主人公であり、かつどちらのヒロインも身体を傷つけられ障害を負うという絶望の淵に立たされながらも、力強く生きて行こうとしている点も共通する。
両作品はいろんな点で似た作品と言えるだろう。だからこうのさんが特別ビジュアル・イラストを引き受けたのかも知れない。
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コメント
予告編から期待してました。期待以上でした。
声を失ってからの黒田華さんの演技が最高にチャーミング。
モノクロスタンダード、パートカラーも素敵で、ほんとに本年最高の映画だと思います。
で、その次の週、「ちひろさん」を見ました。これもよかった。
ひらがなタイトルの映画、連続でよかったです。
投稿: 周太 | 2023年5月 6日 (土) 21:28
◆周太さん
私も期待して、期待以上でした。本年度ベストテン上位を狙えると思います。
「ちひろさん」も2月に観ました。これも良かったですね。今泉力哉監督、絶好調ですね。Netflix配信優先で、ごく一部の劇場でしか公開されませんでしたが、いい映画ですから宣伝もして、拡大公開すればもっと評判になったと思います。多くの人に観て欲しいですね。
投稿: Kei(管理人 ) | 2023年5月 7日 (日) 12:26