「月」
(物語)元・有名作家の堂島洋子(宮沢りえ)は、彼女を“師匠”と呼ぶ夫・昌平(オダギリジョー)と二人で慎ましく暮らしている。新作小説が書けなくなった洋子は仕事を探し、深い森の奥にある重度障碍者施設で働き始める。施設の同僚には作家志望の坪内陽子(二階堂ふみ)や、絵の好きな青年さとくん(磯村勇斗)らがいた。そして洋子は、暗い部屋でベッドに横たわったまま動かないきーちゃんと呼ばれる入所者が、自分と同じ生年月日と知って親身に接するようになるが、その一方で他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにする。そんな理不尽な状況に憤るさとくんは、歪んだ正義感や使命感を徐々に増幅させて行く…。
2016年に神奈川県相模原市の障碍者福祉施設で発生した、19人もの知的障碍者大量殺人事件は世間を震撼させた。この事件を基に、作家の辺見庸が書いたのが、本作の原作「月」である。
重い題材である。特に問題なのは、犯人が優生思想を肥大化させ、重度知的障碍者は生きる資格がないとの信念で事件を起こした点である。どんな描き方をしても、批判が巻き起こるだろう。文章だけの小説ならまだしも、映像として眼に飛び込んで来る映画は余計刺激が強過ぎる。
本作は、数多くの問題作、社会派の意欲作を手掛けてきたスターサンズの故・河村光庸プロデューサーが企画し、同じく辺見庸作品の熱烈な愛読者で映画化を熱望していた石井裕也に監督をオファーした。石井監督の前作「茜色に焼かれる」を製作・配給協力したのが河村光庸氏率いるスターサンズだったという縁もあった。
オファーを受けた石井監督は、「撮らなければならない映画だと覚悟を決めた」という。その信念のもと、原作を独自に再構成し、渾身の力を込めて映画を完成させた。その意欲は映画の隅々にまで満ち溢れている。
(以下ネタバレあり)
原作は、映画にも登場するさとくんと、ベッドに横たわったまま動かないきーちゃんの二人が中心で、なんときーちゃんの一人称で物語が語られて行く、極めて特異な設定である。これを映画化するのはかなり困難である。不可能に近い。
(ただ、動けない、声も出せない身体障碍者を主人公にした映画にはドルトン・トランボ監督「ジョニーは戦場に行った」という秀作があるが、これは健康な身体の時代の回想があるからギリギリ成功していた)
そこで石井監督が取った方法は、原作に登場しない堂島洋子夫妻を創案し、洋子の視点から物語を進めて行く事であった。これが成功している。
洋子は、デビュー小説が売れ、人気作家となったが、その後スランプに陥り、小説が書けなくなった。夫の昌平も定職がなく、趣味の延長の様なストップモーション・アニメを細々と作っている。
洋子夫妻は仲が良さそうだが、子供の姿が見えないのにリビングにパトカーと消防車の玩具が置かれていたり、家の近くに捨てられた子供用の三輪車を見て動揺したりする様子から、わが子を何らかの事情で失ったのだろうと凡その察しはつく。物語が進むに連れ、先天性の心臓疾患を持って生まれた子供を数年前に亡くした事が明らかになって来る。この辛い過去が後々物語の重要なカギとなる。
洋子は生活の為に、深い森の奥にある重度障碍者施設で、非正規職員として働くようになる。施設の同僚には、作家志望の陽子や、絵を描くのが好きな青年・さとくんがいる。映画は、この二人の心の内面にも踏み入れて行く。
二階堂ふみ扮するこの同僚の名前の読みが何故か洋子と同じ“ようこ”。フィクションのドラマでは混同を避けて普通は同じ読み方の役名は使わない。この陽子が作家志望で洋子の著作を愛読している。こういう洋子との類似性はおそらく意識しての事だろう。
陽子の家は厳粛なクリスチャン家庭で、父(鶴見慎吾)は厳しい躾で娘を育て、母共々、陽子も父には何も言い返せない。自分の家は牢獄みたいなものだと考えている。これは勤務する重度障碍者施設のメタファーとも読み取れる。
この障碍者施設では、二人の職員が言う事を聞かない入居者に対し、部屋に軟禁したり、暴力的な手段で抑えつけたりと、入居者を人間扱いしていない。
陽子、さとくんとこの二人以外に職員はほとんど画面に登場しない。おそらくこの二人に職員全体の意識を代弁させているのだろう。
そんな中で、さとくんは入居者を和ませる為に紙芝居を作っているのだが、前述の二人の職員は「そんなもの何の役にも立たない」と破り捨ててしまう。自分の障碍者に寄り添おうとする姿勢を踏みにじられたさとくんは、次第に心の中に悪意を滾らせて行く。
陽子、さとくんと親しくなった洋子は、自宅に二人を招き入れ、食事を共にする。
最初は穏やかに談笑していた彼らだが、酔った勢いで二人は次第に、心の奥に内在させていた本音をさらけ出して行く。
陽子は、施設で働いている経験を小説に生かそうとしているが、そうした取材もせずに書いた洋子の小説には真実味が感じられないと意見する。後で言い過ぎたと謝るのだが。
家庭でも過酷な体験をしている陽子は、体験・取材を重ね、世の中の不条理に向き合う事こそが作家の使命だと確信的に思い込んでいる。
ここには、自分が確信している事こそが正しいという一方的な信念がある。これはやがてさとくんにも潜在的に受け継がれて行く、重要な事件の伏線でもある。
一方でさとくんは、昌平の作っているアニメを見て、海賊が顔のない人形を海に放り込んでいるのは、「顔がないのは心がないという事。この作品は、そんな人間は排除してもいいという事ですね」と昌平に問いかける。
昌平はそんな意図は全くないと否定するのだが、内心は動揺する。顔を作らなかったのは単に予算がない為だが、自分でも気付かない“人の命を粗雑に扱っている”意識が心の隅にあった事を思い知らされる。
昌平はまた、アルバイトで勤務するマンション管理人室の同僚から、彼の作っているアニメについて、「そんなもの、誰が見るんだ」と否定される。見もせずに、作品を頭から貶す人間は世の中に多くいる。
こんな具合に映画は、一見善人に見える登場人物の心の中にだって、悪意は内在している事を鋭く、容赦なく抉り出して行く。
洋子はやがて、お腹の中に新しい命が宿った事を喜ぶが、“もしもまた、障碍を負った子供が生まれたら”と悩む。
映画冒頭の字幕、旧約聖書の一節「過去にあった事はこれからもあり、過去に起きた事はこれからも起きる」がここで思い起こされる。
もし、出生前検査で障碍が認められたなら、この子を産むべきかどうか、それとも検査などせずに産むか、夫妻は苦悩する。
そして物語は終盤、大きなクライマックスを迎える。
夜の施設内で、さとくんは洋子に、自分の思いを打ち明ける。心のない、生きて行く資格のない人間はこの世からいなくなるべきだ。それが自分の信念だと語る。
それに洋子は反論するが、意見は噛み合わない。
やがて洋子が反論する相手の姿が、洋子の姿と重なって行く。もう一人の洋子は、出生前検査で障碍が見つかり、中絶したなら、それはさとくんがやろうとしている事と同じではないのかと問いかける。この対決シーンは圧巻である。
洋子はさとくんに「私はあなたを絶対に認めない!」と言うのだが、もう一人の自分の本音が曝け出された後では、その言葉は空しく響く。
そして7月26日、あの事件が起きる。さとくんはナイフ、包丁、鎌を持って施設に忍び込み、当直の陽子を縛った後、障碍者たちに
「心はありますか?」と問い、答がない相手を次々と手にかけて行くが、惨殺シーンは直接的には描いていないのが救いである。
またこの日はかつて、洋子と昌平が回転すし店で運命的に出会った日。二人はこの記念日にもう一度回転すし店に行き、今後の事を語り合おうとするが、その時ニュースでは、さとくんの事件を報じている。
映画はここで終わる。洋子たちが産まれて来る子に対しどういう決断をしたかは描かれない。映画を観た観客自身で考えて欲しいという事なのだろう。
重い映画だった。だが考えさせられ、心に響く力作である。多面的な視点から、観ている我々自身にも刃を突き付けて来る、本年随一の問題作と言えよう。
「心がない人間は生きるべきではない」とさとくんは言う。だが、きーちゃんを中心に、動けず、言葉を発せられない障碍者も多くいる。現に、原作ではきーちゃんは喋れないけれど心は確かにある人間として描かれている。喋れないからといって、心がないとどうして断言できるのか。その点でさとくんは確実に間違っている。だから映画は決して犯人を擁護しようとしてはいない。
だが我々は、彼を断罪する資格があるのか。誰の心にも、昌平や洋子たちの心にも、知らず知らずのうちに不要な人間を排除しようとする意識が内在しているのではないか。
映画は強くその事を訴えている。そこに私は心打たれた。
思えば先ごろ公開された「福田村事件」でも、震災に乗じて朝鮮人たちを排除しようとして警察等が流言飛語を撒き散らし、多くの朝鮮人や巻き添えになった日本人が殺された事が描かれていた。「朝鮮人は邪魔だから殺していい」と考える人たちは、さとくんの行動とどう違うのか。2本の映画、共に考えさせられる。
タイトル「月」が実に暗喩的だ。月は太陽の光を受けなければ自分では光る事が出来ない。そして決して、地球からは裏側は見えない。
人間はいつも、表からしか物事が見えていない。その表にだって、影はある。
表から見ただけで、その裏に隠された真実を見ていない、いや見ようとしない。だから誤解、思い込み、悲劇が起きる。いい題名だ。
出演者がみんな熱演である。宮沢りえが特にいい。またさとくんを演じた磯村勇斗も、難しい役を見事に演じた。二人とも本年度の演技賞候補である。
石井裕也の脚本・演出も最近の彼の作品では随一ではないかと思う。昨年亡くなった河村光庸の遺志を見事に継いだ秀作である。早逝されたのがつくづく惜しまれる。必見。 (採点=★★★★☆)
(付記1)
昨年公開された早川千絵監督の「PLAN75」でも、冒頭、高齢者施設に忍び込んだ若者が、施設入所の老人たちを次々射殺した後自殺するというショッキングなシーンが登場するが、この作品もまた、本作のモデルとなった相模原障碍者施設殺傷事件に触発されて作ったと、早川監督自身も語っている。本作と根っ子の部分で繋がっている作品と言えるだろう。
で、この作品にも磯村勇斗が出演している。老人に安楽死を勧める職員の役で、同じ事件をベースにした作品に続けて出演しているのは、偶然にしても興味深い。
(付記2)
配給は当初、KADOKAWAに内定していたが、前会長の角川歴彦が五輪汚職で逮捕されてしまったのでKADOKAWAは配給から降りたそうである。そんなわけで配給はスターサンズ単独となった。
ポスターや映画紹介サイトからは角川歴彦の名前は削除されたが、映画のエンドロールでは削除できなかったようで、プロデューサーの一人として角川歴彦の名前が載っていた。
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コメント
今年の日本映画ベスト1ほぼ決定どころか、私の観る限り日本映画ではここ10年くらいで最大の問題作だと思います。
優生思想に挑んだ日本映画ってあまり記憶にありません。
私はやまゆり園事件には当時強いショックを受けて、関連書も読んできました。例えば朝日新聞社が出したルポ「盲信」には、植松聖が安倍晋三元首相に執拗に会いたがっていたとか、驚くことが書かれてます。しかし、結局何もわからないままでした。
パンフレットや監督インタビューが載ってる雑誌も買い込みました。
私も障がいを抱えている故、差別される側にいるので只事ではない映画です。
なお、監督本人が辺見庸を尊敬していることを文庫版解説で明かしてますが、私も辺見庸の大ファンです。
たぶん映画評論家の方々も気づかないでしょうが、この映画は「月」以外の辺見庸小説も使われてます。
こういう脚色する日本映画は珍しいのではないでしょうか。もう一度映画館で観るつもりです。
投稿: タニプロ | 2023年10月19日 (木) 17:17
起き掛けのスマホいじりで、宮沢りえが舞台挨拶で泣いた、石井裕也監督、山ゆり園の話と寝ぼけ眼で見た瞬間、映画館に飛んで行きました。事件の日は実は私の誕生日で、忘れられない嫌なものとして記憶しています。感想をうまく言えないのですが、キツかったぁ。でも堂島夫婦の今後に思いを馳せられる終わり方は救いかな?石井裕也作品は、「夜空は‥‥」以来だったのですが、いい作品作りますね。それと田舎のシネコンで良く上映したな、と思ったら磯村勇斗の地元でした。観客もそこそこ若い人もいたりして。俳優陣も皆良かったしもちろん彼もですが、個人的にはオダジョー、朝ドラもでしたがこういう役似合いますね。
投稿: オサムシ | 2023年10月20日 (金) 22:01
◆タニプロさん
私も本作はいろんな映画賞でベストテン上位を争う事になると思います。ただ優性思想を肯定するのかという批判の声がどこまで影響するかによりますが。映画を観れば肯定などしていない事が分かるんですけどね。
石井監督、「茜色に焼かれる」から作家としての凄みを増して来たと思います。今後が益々楽しみですね。
◆オサムシさん
地味な問題作なのでミニシアター系上映かと思っていたのですが、大阪でもシネコンで上映され、結構客が入っていました。宮沢りえ等著名俳優が出演している事もありますが、石井監督のファンが増えて来ている事もあると思います。この後「愛にイナズマ」も控えてます。ますます目が離せませんね。
投稿: Kei(管理人 ) | 2023年10月21日 (土) 21:53