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2024年6月14日 (金)

「あんのこと」

Annnokoto 2024年・日本   113分
製作:木下グループ=鈍牛倶楽部
配給:キノフィルムズ
監督:入江悠
脚本:入江悠
撮影:浦田秀穂
音楽:安川午朗
製作総指揮:木下直哉
企画:國實瑞恵
エグゼグティブプロデューサー:武部由実子

1人の少女の壮絶な人生を綴った新聞記事に着想を得た、実話を元にした人間ドラマ。監督は「AI崩壊」の入江悠。主演は「PLAN75」の河合優実。共演は「さがす」の佐藤二朗、「正欲」の稲垣吾郎、「雑魚どもよ、大志を抱け!」の河井青葉、「こんにちは、母さん」の広岡由里子。

(物語)売春やドラッグに溺れ、荒んだ生活を送る20歳の香川杏(河合優実)は、ホステスの母親(河井青葉)と足の悪い祖母(広岡由里子)と3人で暮らしている。子供の頃から酔った母親に殴られて育ち、小学4年生で不登校になり、12歳で母親に売春を強要され、16歳で薬物中毒にもなった。そんな荒んだ生活を送る中、人情味あふれる型破りな刑事・多々羅(佐藤二朗)に補導されたことがきっかけで更生の道を歩み出す。多々羅の友人でジャーナリストの桐野(稲垣吾郎)も加わり、杏は新たな仕事や住まいを得て前に向かって進もうとしていた。だが突然のコロナ禍に見舞われ、その暮らしも一変する…。

これは何とも、壮絶な物語だ。幼少期から母親に虐待され、12歳で母親に売春を強いられ、16歳でドラッグ中毒になり、生活の為万引きを繰り返し、警察に捕まる。小学校にも満足に通えなかった為漢字もほとんど読めない。周囲の助力もあってようやく立ち直りかけた所に、コロナ禍で再び人生は暗転する。

これがほぼ実話だというのだから何ともやりきれない。その彼女の不幸な人生について新聞が記事にして、それを読んで衝撃を受けた入江悠監督がこれを映画にしなければと決意し、脚本を書き上げて入江監督の所属する事務所(鈍牛倶楽部)に働きかけ、映画化が実現した。

観るのが辛い映画だが、これは是非観ておくべき、本年を代表する秀作である。

(以下ネタバレあり)

物語は、21歳になった杏が薬物事件で捕まり、警察で取り調べを受けているシーンから始まる。

刑事の多々羅(佐藤二郎)は少々変わり者で、取り調べ中に突然ヨガ体操を始めたりする。しかしとても温情家で、杏を多々羅が主宰する薬物更生者の自助グループ・サルベージ赤羽にに連れて行き、薬物更生プログラムを受けさせる。そこに多々羅とは親密な間柄の雑誌記者・桐野(稲垣吾郎)も取材で訪れる。

多々羅と桐野は杏をさまざまな形で支援し、時には食事やカラオケに誘い、彼女を励まし元気づけようとする。そうした交流の中で、杏は少しづつ、自分を変えようと努力し始める。

刑事なのにそこまでする時間はあるのだろうかとの疑問も沸くが、多分捜査畑ではなく(少年犯罪の早期解決、及びその立ち直り支援も行う)生活安全課に属しているのだろう。上司からは眉を顰められているだろうが。

だが杏は今もなお、家に帰れば母親から「家に金を入れろ」と怒鳴られ暴力を振るわれている。
この母親の暴言暴力シーンが凄まじい。殴るだけで済まず、家財まで手当たり次第に投げつける。こんな毒親がいるのだろうかと戦慄させられる。

そんな状況を見かねた桐野の口添えで、杏は介護施設の非正規職員の仕事を得ることが出来、またDV被害者の為のシェルター・マンションにも入居出来た。これでようやく母親からは離れられる。
介護施設での杏の働きぶりは真面目で親切、彼女の介護を受ける老人からも感謝されるまでになる。表情も穏やかになり、笑顔さえ見せるようになって来る。文字を覚える為、夜学にも通い始める。杏の生活にも、ようやく平穏な時が訪れたかのように見えた。

だが介護施設の職員が、うっかり杏の給与明細を実家の住所に送ってしまい、その為母親が施設に怒鳴り込んで来る。ここでも母親は施設内で罵詈雑言、暴れまくる。まったくとんでもないバカ親だ。

不思議なのは、そんな酷い母親であっても、杏は母親と完全に縁を切ろうとはしない。暴力を受けても、時々は家に帰り、請われれば母に金を渡す。母は杏を「ママ」と呼んで依存する様子さえ見せる。
酷い仕打ちを受けても、肉親の縁は切れないものなのかも知れない。

仕事で給料を得ると、杏はケーキを買って家に帰り、祖母にケーキをプレゼントする。本来は心の優しい、とてもいい子なのだろう。そう思うと涙が出そうになる。

ところがある時、多々羅が実は刑事の立場を利用し、薬物更生者の女性にセクハラを働いていた事が週刊誌で暴露される。記事を書いたのは桐野だった。多々羅は逮捕され、サルベージ赤羽も閉鎖される。桐野が多々羅と親しくしていたように見えたのは、セクハラ事件の裏取りをする為だったのかも知れない。
心から信頼していた二人の、この裏切りに杏は激しく動揺する。

この部分は幾分フィクションも混じっているのだろうが、必要だったのか疑問に思う。だが後で考えてみると、相談出来る、頼れる人を失った事が彼女の絶望感を増幅する事となり、最後の悲劇に繋がったのかも知れないと思うと納得出来る。
何より、“人間は誰しも隠れた顔、二面性を持っている”事も本作の裏テーマなのだろう。多々羅だけでなく、桐野さえも親切な顔の裏に、スクープの為には友人さえも利用する非情なジャーナリストという二面性を持っている。杏の母親ですら、娘を虐待する一方で、杏に甘える依存性も併せ持つ二面性を抱えている。

人間とは、そんな不思議で捉えどころのない生き物なのだ。入江監督の人間を見据え凝視する視線はシビアで容赦がない。

(以下重要ネタバレあり、未見の方は注意)


さらに困難な事態が発生する。2020年、新型コロナウイルスが猛威を振るうようになった事から、杏を取り巻く環境は一変する。緊急事態宣言が発令された事で、介護施設は業務が縮小され、非正規雇用の杏は仕事が出来なくなる。夜学も休校になり、勉学の道も閉ざされる。

コロナ禍では、我々も不自由な思いをさせられたが、最底辺で暮らす人々はもっと過酷で辛い目に遭っていたのだろう。その事を映画は思い知らせてくれる。

そこにまた問題が発生する。同じシェルター・マンションに済む住人の女性(早見あかり)が、多分DV夫から一時逃げる為なのだろう、杏に小さな息子を一時預かってくれと頼み込んで来る。有無を言う暇もない。

最初は困惑する杏だったが、オムツを変えたり、食事を作ったり、世話をするうちに、情が沸いてこの子に愛着を抱くようになる。子供を連れて閉鎖のテープが貼られた公園で遊ぶ杏の表情はとても楽しそうだ。

ここでも杏の、心の優しさが窺える。何より、人に愛情を注ぐ事の素晴らしさを知ったのである。母親に虐待され、体を売る事を母に強要されていた頃は、愛というものを知らなかった。愛する存在がいるという事はなんと素晴らしい事か。子供を預けてくれた女性に杏は感謝したいくらいだろう。

だがそこに、また彼女の母親が現れる。またも母は杏に「ママ」とすがり付いて来る。断り切れずに実家に帰るが、杏がいない時に母親は邪魔な男の子を児童相談所に連絡して引き渡してしまう。

唯一、愛した存在を失ってしまった杏は、底知れぬ絶望感に苛まれ、またもクスリに手を出し、とうとうベランダから飛び降り死んでしまう。空には東京オリンピックの近日開催を告げるブルーインパルスの飛行機雲が舞っているのがなんとも皮肉だ。


マスコミ向けのパンフレットには、杏について「希望はおろか絶望すら知らず」とあるそうだ。杏には、希望などなかったからこそ、絶望する事もなかったのだ。多々羅や桐野に出会って、希望、夢を持つ事が出来、さらに小さな子供を預かる事で人を愛する希望が持てたからこそ、そうした希望を打ち砕かれた時、残ったのは絶望だけだったのだ。

悲しい物語だ。だがこれは現実にあった事なのだ。我々が知らない所で、杏のように絶望から死を選ぶ人間は数多くいる。昨年の自殺者は2万人を超えている。杏はその中の一人に過ぎない。
そのモデルとなった女性について細かく取材し、これを記事にした朝日新聞の英断にも感謝したい。ここには日本の抱えるさまざまな問題―貧困、格差社会、子供の虐待、DV、セクハラ、介護問題、自殺の増加、そして政治・行政の歪み―が凝縮されている。よくぞ記事にしてくれた。この記事がなければ映画化も実現しなかっただろう。

杏を演じた河合優実の入魂の演技が素晴らしい。彼女の代表作になるだろう。また石原さとみ(「ミッシング」)との演技賞争いも注目だ。そして河井青葉の強烈な毒親演技にも圧倒される。彼女も助演女優賞は当確だろう。

入江悠監督は「22年目の告白 私が殺人犯です」「AI崩壊」など最近ではサスペンス、エンタメ分野での活躍が目立っていたので、こんなセミドキュメンタリー社会派作品を手がけるとは予想外だった。入江監督にとってもこれまでの最高作と断言出来る。

興行的にも成功しているようで、大阪で上映しているテアトル梅田では、封切り早々から満席札止めの盛況だ。私が観た回もほとんど満席だった。

繰り返す。観るのが辛い作品だが、是非観ておくべきである。本年を代表する問題作として推奨したい。 (採点=★★★★☆

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コメント

杏がどうなるかは知っていても、最後まで目が離せない展開でした。辛い話ですが、初給料で手帳を買ったり、学校で学び始めたり、最初は大変でも子育てに喜びを見いだすなど良いシーンもありますね。河合優実が素晴らしい。沢山の人に見てもらいたい映画です。

投稿: 自称歴史家 | 2024年6月17日 (月) 15:11

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