「悪は存在しない」
(物語)自然が豊かな高原に位置する長野県水挽町。東京からも近く、近年も移住者は増加しており、ごく緩やかに発展している。代々その地に暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)は、自然のサイクルに合わせた慎ましい生活を送っていたが、ある日、巧の家の近くでグランピング場を作る計画が持ち上がる。それはコロナ禍のあおりで経営難に陥った芸能事務所が政府からの補助金を目当てに計画したものだった。しかし、彼らが町の水源に汚水を排水しようとしていることが判り、町内は動揺するが、その余波は巧たちの生活にも及ぶ事となり…。
濱口竜介監督のファンという事もあり、公開直後に観たのだが、いろいろと忙しい事が重なり、アップが延び延びになってしまった。評価が難しい作品という事もある。観た人の評価も賛否両論だ。
これまでの濱口作品は、人間同士の出会いと対話から生じる濃密な人間ドラマが主流だったが、本作では人間と自然環境との調和と対立という新しいテーマを打ち出して来た。これは面白い視点である。賛否は別れているが、私は面白く観た。
本作の元々の発想は、濱口監督の前作「ドライブ・マイ・カー」で音楽を担当した石橋英子から浜口監督に、自身のライブ・パフォーマンスのための映像制作の依頼があり、そうして生まれたのが濱口監督による「GIFT」(2023年・未公開)。
サイレントによる自然風景の映像に、石橋さんによるライブ・パフォーマンスを重ねるという、一種実験的な映画である。
この「GIFT」を制作する過程で、石橋さんの要望もあって、自然風景の中に物語的な要素も取り入れれば面白いという事になり、次第に物語が膨らんで行って本作「悪は存在しない」が作られる事になったという経緯がある。つまりは「GIFT」の延長線上に本作が誕生したというわけである。この製作過程も興味深い。
(以下ネタバレあり)
映画は冒頭から、ローアングルから見上げる形で森の中を進む映像に石橋の重厚な音楽が重なる。これが延々と続く。いかにも「GIFT」的だなと思わせてくれる。

物語の主人公は、長野県の山奥で暮らす便利屋の巧とその娘である花。巧は毎日、山で採った薪を割り、沢の綺麗な水を汲み、それらを麓の食堂に届ける事で生計を立てている。
娘の花は、いつも一人で森の中を歩いている。父と一緒に歩く時もあるが、ほとんどは一人で行動している。また学校が終わっても、父の車による迎えが遅れると、いつも父を待たずに一人で帰ってしまう。森の中を歩きながら。
それはまるで、父を含めた人間との接触を拒否し、自然の中で生きる事に喜びを感じているかのようだ。これが後半の重要な伏線になっている。
ある時、巧の家に近い森にグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍で経営不振に陥った芸能事務所が政府の補助金を目当てに計画したものだが、会社から派遣された高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の二人が町民を集めて説明会を開いても、汚水排水等の環境破壊問題を住民に突かれると返答に詰まってしまう。畑違いの芸能事務所が思い付きで立てた計画なのだからちゃんと答えられないのは当然だ。
高橋たちは東京の事務所に帰って社長に相談するが、コンサルタントから、住民の中の誰かを管理人にしてはとのアドバイスを受け、高橋は温厚で住民からも信頼されていると思しき巧に話を持ち掛ける。巧はテストするような形で、高橋たちに薪割り等をやらせたり水を運ばせたりする。
そうしたプロセスを経て、高橋は自然の中で暮らす巧に親近感を抱き、やがてはこの山奥の町で暮らしてもいいかなと思い始める。高橋が、最初はへっぴり腰だった薪割りの楽しさに目覚めて行く辺りも楽しい。
だが、巧が高橋たちと接近して行くに連れ、巧の娘・花は益々父とは距離を置くようになる。そして一層自然の中に溶け込むような行動を取って行く。
そして終盤、予想もしない不可解な展開となって映画は唐突に幕を閉じる事となる。
このラストについては、かなり物議を醸している。レビューでもいろんな解釈がなされている。
私なりの解釈を述べると、冒頭とラストに登場する、森の中を延々と進む映像に象徴されるように、自然は雄大で神秘的で、人間が侮れる存在ではない。自然を甘く見ると必ずその報いを受ける結果となるのは、遭難や自然災害を見れば一目瞭然だ。
あのラストは、それまで自然と共存して生きて来た巧が、自然環境に害を及ぼしかねない高橋たちに近づき過ぎた故に、自然から報復された結果と見れば腑に落ちる。その事に気付いた巧は、高橋を排除せざるを得なくなるのである。
誰が悪いわけでもない。鹿を撃った猟師も、それで半矢(手負い)となり花を襲った鹿も、いずれも悪と決めつける事は出来ない。題名通り、悪は存在しないのである。
だが濱口監督のインタビューを読むと、「ああいう終わり方にしようと意図したわけでなく、自然にそう書いてしまった。後で、そう書いたことに自分で腑に落ちた」と語っている通り、監督自身も答など用意していないのである。
観た人それぞれが自由に解釈するのは勝手だが、むしろ答えを求めない方が正解なのかも知れない。
また、いろんな所に濱口監督らしい要素も見られる。車の中で高橋と黛が会話するシーンや、役者としては素人の大美賀均の棒読み的セリフなどはまさに濱口ワールド。
いろんな事を考えさせられ、いろいろと想像を巡らせ、濱口監督の術中にまんまと嵌められてしまう、でもそれがまた楽しい。これはそんな映画なのである。 (採点=★★★★☆)
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コメント
実際、これほど感想を書きにくい映画ないかもしれませんね。
その意味では個人的には「逆転のトライアングル」と似てるかも。ラストの受取り方はそれぞれという点で。
この映画については主人公が突然変貌したのはなぜか。
娘はどうなったのか。
すべては見る者に委ねられたわけで。
さらにその後さえ想像しなければならない。
「落下の解剖学」もそうですが、欧米ではこのタイプ、お前もちいとは考えろよ的映画が最近の傾向なんでしょうか。
それもまた楽しからずや。
なんにせよいい映画でした。
投稿: 周太 | 2024年7月12日 (金) 17:30
付け足し。
朝起きてふと思い出しました。
巧「じゃあ鹿はどこを通ればいい」
高橋「別の道でしょうね」
ここが分岐点だったかもと思いました。
投稿: 周太 | 2024年7月13日 (土) 11:31
◆周太さん
なるほど、「逆転のトライアングル」も意表を突いた不思議な結末でしたね。
あれこれ、謎について考えるのもまた、映画の楽しみ方だと私は思います。
でもそれは、それまで素晴らしい傑作を作って来た鬼才、俊英監督がやるからこそ許されるわけでして、誰もがやって成功するとは限らないのですね。本作はその点、成功だと言えるでしょう。
ちなみに失敗した方では、最近では「わたくしどもは。」(富名哲也監督)を挙げておきましょう。
投稿: Kei(管理人 ) | 2024年7月16日 (火) 22:24