「遠い山なみの光」
2025年・日本=イギリス=ポーランド合作 123分
製作:U-NEXT=分福=ザフール
配給:ギャガ
監督:石川慶
原作:カズオ・イシグロ
脚本:石川慶
撮影:ピオトル・ニエミイスキ
編集:石川慶
音楽:パベウ・ミキェティン
製作総指揮:堤天心
エグゼクティブプロデューサー:カズオ・イシグロ、本多利彦、依田巽、四宮隆史、早川浩、野村明男、吉村和文、ナオミ・ディスプレス、ミシェル・マーシャル
ノーベル文学賞受賞作家、カズオ・イシグロの長編小説デビュー作を映画化したヒューマン・ミステリー。監督は「ある男」の石川慶。主演は「ゆきてかへらぬ」の広瀬すず。共演は「月」の二階堂ふみ、「マイ・ブロークン・マリコ」の吉田羊、「ケイコ 目を澄ませて」の三浦友和、「室井慎次 生き続ける者」の松下洸平、オーディションで選ばれたカミラ・アイコなど。2025年・第78回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品。
(物語)1980年代のイギリス。日本人の母とイギリス人の父の間に生まれロンドンで暮らすニキ(カミラ・アイコ)は、大学を中退し作家を目指している。ある日、彼女は執筆のため、異父姉の景子が亡くなって以来疎遠になっていた実家を訪れる。母の悦子(吉田羊)は、長崎で原爆を経験し、戦後イギリスに渡ってきていたが、ニキは母の過去について聞いたことがない。悦子はニキと数日間を一緒に過ごす中で、近頃よく見るという夢の内容を語り始める。それは悦子(広瀬すず)が1950年代の長崎で知り合った佐知子(二階堂ふみ)という女性と、その幼い娘・万里子(鈴木碧桜)の夢だった…。
2017年、「愚行録」で長編監督デビューを果たした石川慶監督は、その後も「蜜蜂と遠雷」、「Arc アーク」、「ある男」と、コンスタントに作品を発表しているが、どれも原作もので、しかも映画化しにくい作品を選んで、いずれも水準以上の力作に仕上げているのが素晴らしい。毎回気になる監督の一人である。
今回はイギリス在住のノーベル文学賞受賞作家、カズオ・イシグロの長編デビュー作。出演者も実力派を揃えており、これは観たくなる。早速映画館で鑑賞。
原作は未読だが、主人公が長崎生まれで、その後イギリスに渡った、という設定は、カズオ・イシグロ本人の経歴と同じなので、イシグロ本人にとっても思い入れのある作品なのだろう。映画化の話も何度か出たようだが、なかなか首を縦に振らなかったようだ。今回ゴーサインを出したのは、石川慶監督の実力を認めたからだろう。エグゼクティブプロデューサーまで兼任する力の入れようである。
(以下ネタバレあり)
始まりは、1982年のイギリス。イギリス人の夫と結婚してイギリスに住んでいる悦子(吉田羊)は、夫は亡くなり、長女とも死別、次女のニキは家を出て一人暮らしをしている為、この家で一人で暮らすには広過ぎると思い、家を手放す準備をしていた。そんな時、ニキが久々にこの家を訪れる。
ニキの目的は家の片付けの手伝いもあったが、作家を目指すニキは、母から昔の長崎時代の話を聞き出して我が家の歴史の回顧録を書こうと考えていた。
ニキは母の過去について聞いたことがない。悦子も今まであまり語ろうともしなかったようだ。なんとか母から話を引き出そうとするニキ。
ニキと数日間を共にする中で、悦子は最近よく見るという、ある「夢」について語り始める。それは長崎時代に知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の夢だった。
こうして物語は、30年前の1952年の長崎へと移る事となる。
若き日の悦子(広瀬すず)は、復員してきた夫・緒方二郎(松下洸平)と団地暮らしで、もうすぐ第一子が生まれる。二郎は戦争で指の何本かを欠損していた。
そんな時、二郎の父で元校長先生だった誠二(三浦友和)が泊まりに来る。悦子は誠二が校長をしていた学校で勤めていて旧知の間柄である。義父を「お父様」ではなく「緒方さん」と呼んでいる。
ある日悦子は、野良猫を拾った幼い少女が男の子たちに苛められているのを目撃し、少女を助ける。悦子はその子を家まで送り届ける。その家は、団地からも見えていたバラック小屋だった。それが縁で悦子は少女の母・佐知子と知り合い、仲良くなる。少女の名前は万里子だった。
佐知子は駐留米兵のフランクという男と交際しており、近々フランクと一緒にアメリカへ移住する計画を立てていると悦子に話す。生活が苦しいと言う佐知子に、悦子は知り合いのうどん屋を紹介し、佐知子はそこで働く事となる。万里子もその手伝いをする。だが、勝気な佐知子は、横柄な客に水をぶっかけてしまったりする。
…と、ここまでの話で、私は何か違和感を抱いた。その違和感は話が進むうちに徐々に広がって行く。
悦子の回想による長崎の風景は、CGで再現されているのだが、原爆が落とされ、敗戦となってからまだ7年後にしては、妙に明るくてきらびやかである。82年のイギリスが青みがかったモノトーンさを感じさせるのとは対照的である。
もっと気になったのは、緒方夫妻が住む団地である。昭和27年のあの時代に、団地があったのだろうか。
帰ってから調べたら、日本で住宅公団によって団地の建設が始まったのは1955年からである。1952年には団地はまだ作られていなかったのである。
佐知子の家で彼女は悦子に、しゃれたカップに紅茶を淹れてくれる。バラックに住んでいる生活とはどうも相容れない。米兵のフランクからもらったのかも知れないが、紅茶はイギリスではないのか。
悦子は、二郎との現在の生活に満足しており、イギリスに行くような気配は微塵も感じられない。外国に行きたいと願望していたのは佐知子の方だ。
そこで思い出すのが、悦子がニキに語って聞かせるのは、悦子が最近しきりに見る「夢」の中身だという事。「夢」であるなら、その内容は事実そのものではなく、願望を中心としたフィクションの可能性もあるという事だ。
そう考えれば腑に落ちる。1952年の長崎の街が明るくてきらびやかなのは、“夢の中の幻想の街”だからである。CGでわざと非現実的で人工的な明るさにしているのである。
もしかしたら、二郎と住む団地も、現実にはない願望の世界なのかも知れない。結婚して夫婦水入らず、しゃれた団地に住むというのは、戦後10年経過した頃の多くの若い人たちが望んでいた夢だっただろうから。
(以下重要ネタバレあり。映画を観た方のみお読みください)
実は既に多くのレビューでも書いている方がいるのだが、悦子が語っている佐知子とは、悦子自身の事ではないだろうか。
私の想像では、回想中の佐知子が本当の悦子で、二郎と団地で暮らす悦子は、そんな幸福な生活に憧れていた悦子の願望が産んだ虚像ではないかと思う。
おそらく、二郎との結婚生活は戦時中で、身体障害で徴兵を猶予されていた二郎も戦地に行き、やがて長女の景子(=万里子)を産んだ悦子は長崎で被爆したのだろう。佐知子や万里子の腕にはケロイドの跡があった。多分悦子の体のどこかにもケロイドがあるのだろう。二郎は多分戦死している。そして悦子はあのバラックに住み、生きる為に米兵相手に体を売る商売もするようになったと思われる。
誠二が訪ねて来たのは団地ではなく、悦子と万里子が暮らすバラック小屋の方ではないだろうか。二郎を亡くし、悦子がシングルマザーとして苦労しているのを不憫に思って、少なからず援助していたのかも知れない。悦子は戦時中、誠二の下で働いていたので、その頃から多分誠二に心を寄せていたのかも知れない。誠二を「緒方さん」と呼ぶのはその為だろう。
終戦後、被爆者は差別を受けたと言われている。熊井啓監督の「地の群れ」でもそれは描かれていた。
佐知子が天衣無縫な性格で、アメリカに行きたいと望むのは、日本にいては被爆者として差別され続けるという事もあるだろうし、また自由になりたいという悦子の内心の願望を示していると思われる。
終盤、悦子と佐知子と万里子が登る稲佐山ロープウェイだが、実は開業は1959年で、52年当時には存在していない。これもまた、“嘘”の記憶である事を強調している。
前述の団地の件も含めて、時代考証が正確ではないと言ってる人もいるが、ちゃんと狙いがあるのである。本当は考証ミスかも知れないが(笑)。
ここで、最初の頃は二人の服の色がかなり異なっていた(佐知子はピンクや紫の派手な柄)のに、このシーンではほとんど同じ柄の服を着ている。徐々に二人の同化が始まっている事を示している。「私たち、似ているのよ」と佐知子も語っている。
そういえば、冒頭近くで82年の悦子が1枚の写真を見るシーンがあるが、そこにはロープウェイで米兵と会話しているような悦子が写っていた。これも伏線である。しかし59年に開通したロープウェイに悦子が写っているという事は、彼女がイギリスに行ったのは何時なのか。
そこで考えつくのは、ニキは大学を中退し作家を目指しているという事なので、生まれたのは1960年前後だろう。つまり悦子たちがイギリスに渡ったのは59~60年頃になる。おそらく悦子は55年頃にバラックの前に建てられた団地を眺め、フランクとの付き合いで英語を学び、ロープウェイで外人の通訳の仕事を得て、そこでイギリス人の夫と知り合ったのだろう。
こうした想像が当たっていると思われる描写が、終盤に登場する。82年のイギリスで、ニキが景子の部屋で見つけたアルバム。そこに「景子」と書かれた写真の少女はなんと万里子である。景子は実は万里子だった事は間違いなく、つまりは佐知子は悦子自身である。ようやくそれに気が付いて、私はあっと言いそうになった。
一方で、佐知子がアメリカ行きを準備している時、可愛がっている猫も一緒にと万里子が言うと、佐知子は子猫の入った牛乳箱ごと川に沈める。これで佐知子と万里子(=悦子と景子)の間には大きな溝が出来てしまう。
その万里子が行方不明になると、悦子は佐知子以上に万里子を心配し、全速力で草むらを走って探し回る。この対照的な悦子と佐知子の行動は、悦子自身の心の中に秘める二面性を表しているのだろう。ちなみに、こんなに走るという事は妊婦には無理なので、悦子の妊娠も嘘という事になる。
川べりで万里子を見つけた悦子は、万里子にそっと声をかける。この時、悦子は万里子に「景子」と声をかけたような気がした。聞き間違いかなと思って、後で発売中の本作の「シナリオブック」(早川書房)を本屋で立ち読みして(笑)確認したら、やはり「景子」と言っている。間違いなく万里子は、悦子の娘、景子だったのだ。
もう一つ、私は気が付かなかったが、この後に前述の、うどん屋で佐知子が客に水をぶっかけるシーンが再登場するが、「シナリオブック」では、「水をかけたのは悦子である」とある。つまりこのシーンは広瀬すずが演じていたのだ。一瞬だし二人ともよく似ているので見逃してしまった。もう一度観て確認してみたい。
原作では悦子=佐知子はボカされているようだが、石川監督は細かい伏線やヒントとなる映像で、佐知子と万里子は実は悦子と景子である事を暗示しているのである。なかなか秀逸な脚本である。
なぜ悦子はニキにそんな嘘の話を語ったのか、一つは、日本で佐知子のような惨めな暮らしをしていた事を隠したかった事、もう一つは景子の心を傷つけ、無理にイギリスに連れて来た事で、彼女が異郷での暮らしに慣れず自死してしまった事、その自責の念が心の奥にあったからだろう。
過去の記憶の中で、悦子が万里子に優しいのは、あの時、もっとやさしく景子に接してあげれば、という後悔の気持ちから生じた嘘なのである。
予告編には、原作者のカズオ・イシグロの言葉として、「人はね、ときに他人を欺くためではなく、自分を騙し、困難な真実から目を背けるために嘘をつくんですよ。」が登場するが、まさしくこれこそが本作のテーマである。
ともかく素晴らしいのは、原作を壊すことなく原作を巧みにアレンジして、謎が謎を呼ぶミステリー仕立てにしている脚本の秀逸さ、演じている俳優たちの巧演、ポーランド時代から石川作品を支えているカメラマン、ピオトル・ニエミイスキによる撮影の美しさ、そして石川慶監督の隅々にまで気を配った演出の見事さである。
人間の、業の深さ、愚かしさ、心の不可思議さを格調高く描いた、これは本年を代表する秀作である。
それにしても、チラシでも予告編でも、悦子が“嘘をついている事”や、本作がヒューマン・ミステリーである事を強調し過ぎだ。これらは映画を観る人には知らせない方が親切ではないかと思う。
(採点=★★★★☆)
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コメント
どことなくホラーテイストで、最後まで目が離せない展開でした。人間の業が滲み出て強い印象を残します。広瀬すずの好演が光ります。上映が始まったばかりの「宝島」にも期待出来そうです。
投稿: 自称歴史家 | 2025年9月20日 (土) 12:53
◆自称歴史家さん
>どことなくホラーテイストで…
長くなったので本文では割愛しましたが、至る所にホラーめいた不穏な空気感がありましたね。
例えば前半に、幼児連続殺人事件の新聞報道や、赤ん坊を水に浸けて死なせる若い母親の話が出てきましたし、終盤で悦子が万里子を川べりで見つけた時、悦子が足に絡まったと言う縄を持っているのを見て万里子が怯えるシーンがありました。
また中盤、黒い服の女が佐知子の家に入って行くのを見た悦子が、後を追って佐知子の家に行くと、そんな女は来ていないと佐知子は言います。
これらは、一部は当時の事実も交じっているでしょうが、多くは景子を自死させてしまった悦子の強い自責の念が生みだした妄想なのでしょうね。
景子の自殺の方法が、“紐”による縊死だった事が、それを示しているような気がします。
黒い服の女は、終盤の電車のシーンにも登場する82年の悦子自身でしょうね。
見れば見るほど、奥の深い秀作だと思います。
残念ながら興行的には苦戦しているようで、早くも映画館では1日1回上映の所が増えています。もう一度じっくり味わいたと思っているのですがね。
投稿: Kei(管理人 ) | 2025年9月23日 (火) 13:49
やや地味な印象が影響してますかね。管理人さんの言う通り、ネタバレ気味のプロモーションもマイナスかも。九州でもあまりお客さんが入ってないようで、上映回数が減ってます
投稿: 自称歴史家 | 2025年9月23日 (火) 19:13
久しぶりのコメントですが、いつも読んでますよ。
ロープウェイのシーンで木登りを巡って広瀬すずと口論する役の女優は古い知り合いです。
投稿: タニプロ | 2025年9月29日 (月) 19:40