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2025年11月13日 (木)

「フランケンシュタイン」 (2025)

Frankenstein 2025年・アメリカ  149分
製作:Double Dare You Production=Demilo Films Production
提供:Netflix
原題:Frankenstein
監督:ギレルモ・デル・トロ
原作:メアリー・シェリー
脚本:ギレルモ・デル・トロ
撮影:ダン・ローストセン
音楽:アレクサンドル・デスプラ
製作:ギレルモ・デル・トロ、J・マイルズ・デイル、スコット・ステューバー

何度も映画化された19世紀イギリスの作家メアリー・シェリーの不朽の名作を映像化。監督は「シェイプ・オブ・ウォーター」の鬼才ギレルモ・デル・トロ。出演は「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」のオスカー・アイザック、「プリシラ」のジェイコブ・エロルディ、「MaXXXine マキシーン」のミア・ゴス、「ジャンゴ 繋がれざる者」のクリストフ・ヴァルツなど。2025年・第82回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。Netflixで2025年11月7日から配信。それに先立つ10月24日から一部劇場で公開。

(物語)天才だが傲慢な科学者ヴィクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)は、己の欲望に駆られ、新たな生命の創造という禁断の実験を敢行する。だが、それによって生み出されたのは、恐るべき怪物(ジェイコブ・エロルディ)だった。やがてヴィクターと怪物は、それぞれ自分の過去と運命を語り出す…。

Frankenstein_karloff1 メアリー・シェリーが1818年に発表した「フランケンシュタイン」は、1931年に当時怪奇映画を量産していたユニヴァーサル社が映画化したジェームズ・ホエール監督作品(右)がSF怪奇映画の古典としてあまりにも有名で、ボリス・カーロフが演じた怪物のメイクは強烈だった。以後この原作は何度も映画化されている。1957年には怪物ものが得意のハマー・フィルムも「フランケンシュタインの逆襲」を製作している(怪物役は後に「吸血鬼ドラキュラ」のドラキュラ役で有名になる前のクリストファー・リー)。
Abbottcostellofrankenstein 中にはアボット&コステロの凸凹コンビによるドタバタ・コメディ版「凸凹フランケンシュタインの巻」(1948)があったり、メル・ブルックスもお得意のパロディ版「ヤング・フランケンシュタイン」を監督したり、ティム・バートンまで死んだ犬を蘇らせた「フランケンウィニー」を作ったり、パロディも含めて実にいろんなフランケンシュタイン映画が作られてFrankensteinvsundergroundmonster 来た。日本でも本多猪四郎監督により「フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)」(1965)が製作公開されたくらいである。怪物のデザインがいずれも1931年版のカーロフ・メイクをそのままいただいているのがおかしい。
1994年にはフランシス・フォード・コッポラ製作、ケネス・ブラナー監督により原作に最も忠実な「フランケンシュタイン」が作られている。怪物を演じたのはロバート・デ・ニーロ。

そして「パンズ・ラビリンス」「シェイプ・オブ・ウォーター」と、異形の怪物に対する偏愛を描き続けて来たギレルモ・デル・トロも「フランケンシュタイン」に強い思い入れがあり、本作は20年以上も温めて来た念願の企画だそうだ。デル・トロ監督ファンとしてはこれを見逃す手はない。

なおインタビューによると、デル・トロ監督は本多猪四郎監督の「フランケンシュタイン対地底怪獣」と続編「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(1966)も心から敬愛しているとの事だ。

(以下ネタバレあり)

冒頭の1857年、アンダーソン船長(ラース・ミケルセン)率いるデンマーク籍の北極探検船が、厚い氷の海に阻まれて動けないでいる所に、衰弱している男ヴィクター・フランケンシュタインと遭遇する出だしは原作通りである(注1)。ケネス・ブラナー監督版も同じくこの場面から始まっている。

ヴィクターはアンダーソン船長に救出されるが、その後を怪物が追って来て、船員たちが銃で対応しようとするのだが、怪物は何度銃撃されても死なず、船員たちをポンポン投げ飛ばしたり、はたまた探検船を怪力で持ち上げたりもする。まるでスーパーマンだ(笑)。

結局怪物は船長の機転で割れた氷の下に沈む。そしてヴィクターは船長に、あの怪物を創ったのは私だと言い、自分の生い立ちと怪物を生み出した経緯を語り出す。ここで「パート1:ヴィクターの話」との字幕が入る。

若い頃のヴィクターは厳格な外科医の父・フランケンシュタイン男爵から厳しく育てられていたが、ある時、最愛の母を病気で亡くす。
母が死んだのは、父がちゃんと治療に当たってくれなかったと感じたヴィクターは人間の命の儚さを憂い、また“生命の創造”について深い関心を抱くようになる。これがヴィクターの運命を大きく変えて行く。

以後は旧来のフランケンシュタインものと同様、ヴィクターが死体を集め、電気を使って体にショックを与え、生き返らせるという実験を重ねて行く事となるのだが、原作から大きく変更されたのが、原作ではヴィクターの婚約者だったエリザベス(ミア・ゴス)を、ヴィクターの弟、ウィリアム(フェリックス・カメラー)の婚約者とし、エリザベスの叔父、武器商人のヘンリッヒ・ハーランダー(クリストフ・ヴァルツ)を新たに登場させた点である。

これによって、エリザベスはヴィクターを愛する存在ではなく、彼の研究や考え方を最初から疑問に感じ、反感を持つ人物として描かれる。

ヴィクターは医学生や教授たちを前にした講義で、複数の死人を繋ぎ合わせた標本を使い、電流を通せば一時的に動く事を証明する。このシーンはゾクッとさせられる。
だがそんなヴィクターの常軌を逸した実験は教授たちからも嫌悪され、医師会を解雇されてしまうが、それを救ったのがハーランダーだった。彼の資金援助を得て、ヴィクターは何層もある高い塔を買い取り、そこで実験を継続して行く。ハーランダーも手伝う(実はハーランダーには別の狙いがあったのだが)。

そして落雷を利用した電気実験を経て、遂に死者を蘇らせた“怪物(クリーチャー)”を誕生させる事に成功する。
怪物のデザインが、過去のフランケンシュタインもののような醜い形相や針で縫われた傷跡だらけの顔などとは違って、継ぎ目がある以外普通の人間に近いのも、怪物を愛するデル・トロらしい。怪物を演じたジェイコブ・エロルディが見事な快演。

だが怪物は生まれ立ての乳児のような存在だった。ほとんど言葉を発せられず、知性も感じられない。失望したヴィクターは塔に火を放ち、怪物を殺そうとする。

一旦は塔を出たものの、思い直して塔に戻った所で大爆発、ヴィクターは吹き飛ばされ右足を失ってしまう。因果応報という所か。

ここまででヴィクターの回想は終わる。そこに怪物が戻って来て船長に言う。「創造主の話は終わったか。では私の話も聞かせよう」。
そして「パート2:クリーチャーの話」と字幕が出て、以後は怪物の主観で現在までの回想が語られる。

この構成が秀逸だ。従来のパターンと違って、パート2は怪物がどのように自分の人生を歩み、人間としての成長を遂げたかを丁寧に描いている。


パート1の最後で、炎に包まれ死んだかと思われた怪物は、偶然地下への回路を通って地下水路に落ち、脱出に成功する
このエピソード、1931年版の続編、1935年の「フランケンシュタインの花嫁」の冒頭とそっくりである。多分デル・トロがオマージュとして拝借したのだろう。

怪物はその後、各地を転々と移動しながら旅を続けるが、その異様な姿から人間に銃で撃たれたりもする。傷口はすぐに塞がるので、驚異的な治癒力も有しているようだ。まさに不死身である。

そしてある民家の屋上に忍び込んだ怪物は、家族がそれぞれの冬を過ごす為に家を出て行き、一人残された盲目の老人(デヴィッド・ブラッドリー)といつしか親しくなり、老人から言葉を覚えたり、老人の所有する多くの本―聖書からミルトンの「楽園」まで―読み漁り、人間的な知性と教養を獲得して行き、世界のありよう、人を赦す事の大切さまで学んで行く。このシークェンスの演出はかなりの時間をかけ、力が入っている。

この盲目の老人との出会いと知識の獲得のくだりは、やはり前述の「フランケンシュタインの花嫁」にもそのまま登場しており、これもオマージュだろう(原作にはない)。デル・トロ監督、かなりこの作品がお気に入りのようである。

知性は得たけれど、同時に自分は死ねない、不死身の体だと知った怪物は、自分は孤独だと悲しむ。そして生涯を共にする伴侶が欲しいと考えた怪物は、創造主たるヴィクターの元に向かう。

折しもヴィクターは、ウィリアムとエリザベスの結婚式に出席する為控室にいた。ヴィクターと出会った怪物は、自分の伴侶となる女性を創って欲しいとヴィクターに頼み込む。だがヴィクターは、二度とお前のような忌まわしいものは創らないと怪物の願いを拒否する。
いまだにヴィクターは、恐ろしい“怪物”を創ってしまったと思い込んでいるのだ。「邪悪で醜い化け物」とまで行ってしまう。なんと呆れた傲慢な人間か。お前の方がよっぽど邪悪で醜いと言いたくなる。怒った怪物はヴィクターを痛めつける。

その騒ぎを聞きつけたエリザベスがやって来ると、エリザベスは怪物を優しく抱き留める。
実は前半の研究塔で初めて怪物を見た時も、エリザベスは怪物を優しく見つめ、心を通わせている。怪物は人間だと、誰よりも早く感じ取っていたのだろう。愛すら感じられる。
「そいつから離れろ」と叫び銃を構えるヴィクターに、エリザベスは身を挺して怪物をかばい、ヴィクターの銃弾に倒れる。ここでもヴィクターは駆け付けたウィリアムたちに「あいつ(怪物)が襲った」と嘘をつく。どこまでも卑劣だ。

エリザベスは怪物に「一緒に連れてって」と言い、怪物はエリザベスを抱いて式場から去って行く。

残されたウィリアムにヴィクターが近寄ると、ウィリアムは「兄さんこそ怪物だ」と言う。ヴィクターの正体をこれまでの経緯から薄々感じていたのだろう。
ここで重要なのは、ヴィクターが創った怪物はずっと「クリーチャー」と呼ばれていたが、ウィリアムがヴィクターに投げつけた言葉は
“Monster”である(注2)。字幕ではどちらも「怪物」なので区別がつかないのが残念。しっかり聴き取って欲しい。以後ヴィクターが創った怪物は“クリーチャー”と呼ぶ。

エリザベスを抱いたクリーチャーは雪の洞窟内で彼女を下すのだが、ここで瀕死のエリザベスがクリーチャーに語りかける言葉がとても切なく悲しい。究極のラブストーリーである。ここは泣いてしまった。

そしてモンスターと化したヴィクターは、クリーチャーを倒す執念に取りつかれ、どこまでも彼を追い求めて行く。そして北極海で探検船と出会う冒頭に繋がるわけである。

クリーチャーが語り終え、彼の人間としての悲しみを初めて悟ったヴィクターは彼に赦しを乞い、クリーチャーも彼を赦す。そして「息子よ」、「父上」と呼び合う。この会話も感動的だ。


観終わってとても感銘を受けた。19世紀の建物、風景を完璧に作り上げた美術、セットの見事さにも惚れ惚れさせられるが、クリーチャーをここまで悲しみを帯びた人間として描き切った脚本も素晴らしい出来で、終盤は何度も泣いてしまった。何より、ヴィクターこそ怪物だ、と喝破した発想のユニークさは目からウロコである。個人的には本年度の洋画ベストワンとしたい。劇場で観た後も、Netflixで何度も観直した。何度観ても飽きない。配信もいいが、出来れば劇場の大画面で観ていただきたい(当地ではまだ続映中)。

俳優では、クリーチャーを演じたジェイコブ・エルロディが素晴らしい好演。来年のアカデミー助演男優賞は間違いないだろう。エリザベスを演じたミア・ゴスもいい。アンダーソン船長役のラース・ミケルセンもシブい好演。もしかしたら「シェイプ・オブ・ウォーター」に次ぐアカデミー作品賞も狙えるかも知れない。思えばあの作品も、クリーチャーと一人の女性とのラブストーリーだった。

しかしまあ、Netflix提供ゆえ仕方ないのだろうが、これは大宣伝をかけて全国シネコンで拡大ロードショーを実施し、多くの観客に見せてあげるべきだった。地方の映画ファンは劇場で観られないからである。考えて欲しかったなぁ。    (採点=★★★★★

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(注1)
但し原作では船長は英国人のウォルトンとなっており、時代も1794年になっている。この点ではケネス・ブラナー監督版の方が時代も船長の名前も原作通りで、より原作に忠実と言える。

何故時代設定を変えたのかというと、この北極シーンでヴィクターが怪物を殺す為ダイナマイトを購入するシーンがあるが、原作の1794年にはまだダイナマイトは実用化されていないからだ(スウェーデン出身のノーベルがダイナマイトを研究・開発したのは1850年代以降)。なので、年代を1857年にし、北極探検船の所属もスウェーデンに近いデンマークにしたのだろう。
また電気や写真など、18世紀には無かった技術も登場するが、これも1857年という時代でないと無理が生じるからだろう。

厳密に言えばノーベルがダイナマイトを商品化したのは1871年なので、1857年にダイナマイトが売られていたのはおかしいのだが。まあノーベル以前に誰かがモグりで作っていたという事にしておこう。


(注2)

ジェームズ・ホエール監督の1931年版「フランケンシュタイン」でも怪物は“モンスター”と呼ばれており、以後の多くの映画化作品でもほとんど“モンスター”である。“クリーチャー”と呼ばれたのは1994年のケネス・ブラナー版が最初ではないだろうか。

 

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