「ドイツ零年」
1948年・イタリア 74分
製作:テヴェル・フィルム
配給:ザジフィルムズ (初公開時:イタリフィルム=松竹)
原題:Germania anno zero
製作:ロベルト・ロッセリーニ
監督:ロベルト・ロッセリーニ
脚本:ロベルト・ロッセリーニ
脚色 ロベルト・ロッセリーニ、マックス・コルペット、カルロ・リッツァーニ
撮影:ロベール・ジュイヤール
音楽:レンツォ・ロッセリーニ
イタリアの名匠、ロベルト・ロッセリーニが、「無防備都市」、「戦火のかなた」に次いで製作・監督した「戦争3部作」の3作目で、第2次世界大戦後の廃墟と化したベルリンの街に生きる少年とその家族の姿を通して、戦争がもたらす悲劇を描いたドラマ。出演者はすべて無名の素人俳優で、エドムンド・メシュケの少年を中心に、エルンスト・ピットシャウ、インゲトラウト・ヒンツ、フランツ・クリューゲル、エーリッヒ・ギュネらが共演する。
(物語)ナチスドイツ崩壊後のベルリン。廃墟に等しい街で暮らすケーレル一家の少年エドムンド(エドムンド・メシュケ)は、病弱で寝たきりの父(エルンスト・ピットシャウ)、警察を恐れ家に引きこもる元ナチス党員の兄カール・ハインツ(フランツ・クリューゲル)、家計を助けながら父を看病する姉エヴァ(インゲトラウト・ヒンツ)とともに、間借りした狭い部屋に暮らしている。父と兄に代わってお金を稼ぐため、学校にも行かず廃墟のような街をさまようエドムンドは、ある日、小学校の担任教師だったエニング(エーリッヒ・ギュネ)と再会する。学校を追放され闇商売に手を染めるエニングが説くナチス思想に、無垢なエドモンドは次第に感化されて行く。
ヌーベルバーグの監督たちに多大な影響を与えたネオレアリズモの旗手、ロベルト・ロッセリーニに監督よる「戦争3部作」の3作目である。1、2作目の「無防備都市」、「戦火のかなた」はかなり昔に観た記憶があるが、いずれも記録映画のようなドキュメンタルな映像以外覚えていない。「ドイツ零年」だけは未見。
今回、その「ドイツ零年」が、“ロッセリーニ/ゴダール[2つのゼロ年]”と題して、ジャン=リュック・ゴダール監督の「新ドイツ零年」とのカップリングでニュープリント劇場公開された。これは観たかったのでありがたい。なお「新ドイツ零年」は時間が合わず見逃してしまった。
(以下ネタバレあり)
舞台は、第二次大戦終了直後のドイツ・ベルリン。実際に戦火の傷跡生々しいベルリンで1947年に撮影された。
カメラは冒頭から、そのベルリンの街を横移動で追っているが、まさに瓦礫だらけの、廃墟のような街並みが続く。日本のような木造家屋だと、一面焼け野原になっているだろうが、ドイツの建物はコンクリート建てなので、一部は破壊されていても壁が残っていれば人は住んでいるようだ。
実際の壊された建物をそのままロケ地として使っているので、フィクションでありながらドキュメンタリー映画を観ているような感覚になる。出演しているのも、演技経験のない素人ばかり。これがロッセリーニ監督お得意の“ネオレアリズモ”である。
主人公となるのは、そんな焼けビルの一角にすむケーレル一家。父は寝たきりで回復の望みのない病人。その娘エヴァは生活の為、夜のキャバレーに出かけてはアメリカ人相手の接待をしているが、得られるのは微々たるものだ。長男のカール・ハインツは元ナチ党員だった事で、収容所送りを恐れて家に隠れ、仕事に就かずゴロゴロしてるだけ。そして末っ子の少年(12歳くらいか)エドムンドは、家計を助ける為、学校にも行かず、年齢を偽って掘削現場で働こうとするが、労働許可証がない為はじき出されてしまう。それでも何とか仕事を見つけようと闇屋のような事までやっている。その健気さには涙を誘われる。
エドムンドが歩き回る、街のいたる所に瓦礫が積み上がっていたり、どの家も壁や床に大穴が開いていたり、とても普通に暮らせる環境ではないと思うが、それでも他に住む所がなければ我慢しなければならない。なんとか通っている電気も制限されていて、超過すれば大家から文句を言われる。酷い生活ぶりだ。

ある時、エドムンドは、小学校の担任教師だったエニングと再会する。エニングはエドムンドに、生活の足しにと、ヒットラーの演説レコードをアメリカ兵に売る等のアルバイトを世話してくれる。
そんなレコードを持っている事からして、エニングは元ナチ党員だったのだろう。
初めて親切にしてくれる大人に出会って、エドムンドは次第にエニングに心を許すようになる。
だがある時、エニングはエドムンドに「役に立たない足手まといの人間はむしろ死ぬべきだ」と語る。さすがナチスらしい、優性思想の考え方である。これが後に悲劇を生む。
父の病状は悪化し、医者の骨折りでやっと慈善病院に入院出来たが、そこにも長くは居られず、また家に戻る事となり、一家の苦しい生活は続く。そんな暮らしぶりを見た父が「主よ、どうして死なせてくれないのですか」と呟く。
そんな父を見ていたエドムンドの頭に、エニングが語ったあの言葉が甦る。そしてとうとう、病院で手に入れた劇薬を父に飲ませてしまうのだ。そして父は死ぬ。
その翌日、エドムンドはエニングに会い、父を殺した事を告げるのだが、仰天したエニングはなんと、「そんな事をしろとは言ってないぞ。なんて事をしたんだ」とエドムンドを責めるのである。何とも呆れた、身勝手な大人だ。
絶望したエドムンドは、街を彷徨い歩いた末に、ビルから飛び降り自殺を遂げる。…何ともやりきれない結末である。
戦争は、その最中も悲惨だが、終わった後も深い爪痕を残す。そしていつも犠牲になるのは、いたいけな子供たちである。本作のエドムンドは、誰よりも家族の事を思い、懸命に働こうとしたのに、大人の身勝手さに振り回されて死を選ぶしかなかった。可哀想で涙が出る。
エドムンドを演じたエドムンド・メシュケ少年の演技も素晴らしい。とても演技経験のない素人とは思えなかった。
本作を観終わって、思い出した映画がある。高畑勲監督の「火垂るの墓」である。あの映画でも、清太は親類のおばさんの冷たい視線に耐えられず、妹と二人だけで生きようとするが、妹共々死んでしまう。敗戦後の混乱期、子供が身勝手な大人のせいでどこにも行き場所がなくなった末に命を落とす、という内容が本作とテーマ的にも似ている。こちらも泣けて仕方がなかった。
ロッセリーニ監督の視線は冷徹だが、それ故に戦争の恐ろしさ、戦後も残り続けるナチズムへの怒りが強く感じられた。イタリアン・ネオレアリズモの名にふさわしい力作だと言えよう。傑作である。
(採点=★★★★☆)
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