2008年6月30日 (月)

「山桜」

Ymazakura

(2008年・東京テアトル/監督:篠原 哲雄)

藤沢周平の同名短編小説(「時雨みち」所収)の映画化。

藤沢作品の映画化は、山田洋次監督による3部作や、黒土三男監督「蝉しぐれ」などがあるが、いずれもが男性側からの視点で描かれていたのに対し、本作は“女性側からの視点”で描かれている点が目新しい。

舞台はいつもの海坂藩。主人公・野江(田中麗奈)は、最初の夫に死に別れ、2度目の夫は舅共々金貸しの蓄財にしか興味がない下衆な男。姑(永島瑛子)からも「出戻り」と蔑まれながらも健気に耐えている。が、叔母の墓参の帰り、山道で見つけた美しい山桜に心惹かれ、取ろうとした枝に手が届かない野江の背中に「手折ってしんぜよう」と声をかけた侍がいた。彼こそ、密かに野江に思いを寄せていた手塚弥一郎(東山紀之)だった。…

原作は、すごく短い作品で、立ち読みしてもすぐ読める(私は10分で読んだ(笑))。これを99分の映画にする為には、いかにサブエピソードを追加創案して物語を膨らませるかが脚本家の腕の見せ所となる。

脚色は飯田健三郎と長谷川康夫。この2人は「ホワイトアウト」「亡国のイージス」「ミッドナイト・イーグル」と、スケールでっかいポリティカル・サスペンスを手掛け、いずれも原作よりずっとつまらない出来でガッカリさせてばかり。
しかし一方で飯田は田中麗奈主演の「EKIDEN/駅伝」の原案、長谷川は篠原哲雄監督の「深呼吸の必要」と、いずれも青春ものの佳作があり、資質としてはこうした青春ものの方が向いているのでは…という気がする。

篠原哲雄監督も、作品の出来にムラが多い人だが、田中麗奈主演「はつ恋」(2000年)という傑作を作った実績があり、久しぶりの田中麗奈とのコンビに期待する所があった。

出来映えとしては、名匠・山田洋次作品には及ぶべくもないとしても、脚本・演出ともなかなか健闘している。

傑作と言えるほどの出来ではないが、“佳作”と呼ぶのがピッタリの、ウエルメイドな作品である。

 

野江の実家の人たちとのさりげない会話で、この家族がいずれも心やさしくつつましく、それによって、婚家先のイジメにも、不幸な運命にもじっと耐える野江の芯の強さが十分納得出来るよう配慮されている。さまざまなエピソードを積み重ね、野江の、弥一郎への思いがゆっくりと醸成されて行く展開にも無理がない。

弥一郎に扮する東山紀之が、凛とした侍の立居振舞いを絶妙に演じている。農民に同情を寄せ、その農民たちを苦しめる藩の重臣に怒りを感じ、とうとうこの重臣を斬り倒す。―しかし無益な殺生はしない。取り巻きたちには峰打ちを食らわすのみである辺りに、弥一郎の下級侍なりの信念と潔さとが示されている。

春から始まり、四季の移り変わりをロケで丁寧に描き、そしてまた春が訪れる。
野江が、1年前に弥一郎が折ってくれた、あの山桜をたずさえて弥一郎の母を訪ねるラストシーン。ほんのわずかの登場であるが、その母を演じる富司純子の気品溢れるたたずまいが絶品である。

それらに重ねて、藩主が江戸から戻って来る、土手の大名行列(いい絵である)と、獄中の弥一郎の姿とを交互に描き、あるいは弥一郎への沙汰も軽いのではないかと暗示させてはいるが、結末の判断は観客に委ねられている。

野江と、弥一郎の母との幸せそうな触れ合い。…弥一郎の沙汰がどうあろうとも、野江にも、ようやく遅い春が訪れた事を示すラストショットにふと涙が溢れ、物語を爽やかに締めくくる。

野江の母を演じる壇ふみも、娘の行く末を温かく見守る慈愛に溢れた母親像を好演。父親役の篠田三郎も短い出番ながら印象的。

惜しいのは、弥一郎に関するエピソードがやや物足りなく、死罪になるのを承知の上で(野江に抱いているであろう、密かな思いを断ち切ってまでも)彼が重臣に手をかけた、その心の葛藤がきちんと描かれていない。また、獄中の弥一郎が髭も頭の月代も全然伸びていない…という手抜きは問題(山田洋次はその点はオーバーな程徹底している(笑))。
――まあここは、牢屋番役人も弥一郎に同情的で、剃髪も自由にさせていたと善意に解釈出来なくもないが…。

もう一つ、一青窈の主題歌の使い方がまるで場違い。物語の雰囲気が台無しである。使うならエンドロールだけにして欲しい。

 
そういった難点はあるものの、全体としては、短いながらも珠玉の好編である原作の香りを損なう事なく、丁寧な作りで、観終わって爽やかな余韻を残す佳作に仕上がっており、いい気分で映画館を後にした。

篠原監督としても、「はつ恋」に次ぐ出来栄えで、田中麗奈とのコンビはウマが合うのではないか。
奇しくも、「はつ恋」と同じく、“桜の木”が重要なアイテムになっているのは、偶然なのかどうか…。    (採点=★★★★☆

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2008年6月26日 (木)

「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」

Indyjones (2008年・パラマウント/監督:スティーヴン・スピルバーグ)

'80年代に、ジョージ・ルーカス+S・スピルバーグという2大ヒットメイカーがタッグを組んで作り上げた人気シリーズの、19年ぶりの復活。

アメリカ映画界も、ヒット・シリーズがなかなか誕生せず、昔の名前を引っ張り出して化粧直しするケースが相次いでいる(「スーパーマン」、「ロッキー」、「ランボー」、「ダイ・ハード」等々)。

ルーカス・フィルムも、「スター・ウォーズ」が終了して稼ぎ頭がなくなった為か、とうとうしまい込んでたお宝を、倉庫から取り出す事になったようだ。

前記に挙げた作品群と異なるのは、このシリーズのみ、製作・監督・主演のトリオにまったく変更がない…という点。こんなケースは、あと「男はつらいよ」以外に思い当たらない(笑)。ブランクこそあれ、第1作から数えて27年!年数に関しては寅さんを追い抜いてしまった。そして、クオリティも27年前と、全くと言っていいほど変わっていない。凄いことである。

私は、1作目から全シリーズをリアルタイムで観ている。1作目が登場した時は、ルーカス、スピルバーグ両人の大ファンであったから、公開を心待ちにして、封切られるや真っ先に観に行った。そして、予想を遥かに上回る面白さ、楽しさに大喝采を送った。これぞまさに、娯楽映画の原点、波乱万丈冒険大活劇そのものであった。理屈抜きに楽しくて、余計な思想も、ウエットさも、思わせぶりなテーマも、何にもない。さらには、古い映画からの引用、オマージュもてんこ盛り。古くから、沢山の映画を観て来た、根っからの映画ファンであるほど楽しさは倍加する、これは、“すべての映画ファンに捧げる、王道を行く真の娯楽映画シリーズ”なのである。

 
さて、そんなわけで復活したシリーズの新作。今回は経過した年数と同じだけ時間も経過し、舞台は前作から19年後の1957年

映画は、シリーズのバックボーンである、昔からある“宝探し冒険活劇”(有名なのはH・ライダー・ハガード原作「キング・ソロモンの宝窟」などの一連の作品)のパターンを忠実になぞっている。
ヒーローがいて、美女がいて、悪辣な敵が邪魔をし、グロテスクな生き物が襲って来て、宝を守るトラップに悩まされ、最後はハッピーエンド…とまあ、お約束通りに話は進む。

これを、「毎回同じような話で飽きる」とか「ワンパターンでつまらない」とかで批判する人もいるだろうが、こういうB級娯楽映画はワンパターン結構、一難去って又一難、ハラハラドキドキ、楽しませてくれればよいのであり、観る方も、毎回頭を白紙にしてどっぷり画面に浸って楽しむべきである。「男はつらいよ」だって、毎回ワンパターンながら、それを承知で、観客は映画を楽しんでいたのである(笑)。

その代わり、随所に細かいネタが仕組まれており、最初はスリル満点のアクションとサスペンスを堪能し、後は細部の小ネタを反芻すれば余計楽しめる。無類の映画好きのお二人が製作・監督してるのだから、小ネタも半端ではない。'50年代が舞台という事もあり、自身の「アメリカン・グラフィティ」から「バック・トゥ・ザ・フユーチャー」などのセルフパロディ、当時無数に作られたB級活劇(H・R・ハガード原作「キング・ソロモン」も1950年に映画化・公開された。主演はスチュアート・グレンジャー、デボラ・カー)のエッセンス、また、時代背景として、当時の大国・ソ連の脅威、それに伴う赤狩り旋風、核実験…等の時事ネタも巧みに取り入れられている。

(ここからややネタバレがあります。ご注意ください)
インディが核実験に巻き込まれ、冷蔵庫に入って助かるシークェンスが、認識不足だとかありえないとか叩かれているが、親日家のスピルバーグが核の怖さを知らない訳がなく、ましてやハリソン・フォードは、ソ連の原子力潜水艦の放射能漏れ事故の実話を題材とした「K-19」に主演している。

あれは、当時の核に対する政府のインチキ・プロパガンダに対する皮肉なのである。

それを証明するのが、冒頭、意味ありげに映される「アトミック・カフェ」の看板である。
「アトミック・カフェ」とは、'82年に公開された、核実験に関するドキュメンタリー映画で、政府が作ったプロパガンダ・フィルム等が引用され、「原爆が落ちたら机の下に隠れなさい」(笑)などのいいかげんなPRがされていたり、兵隊たちが実験直後の爆心地に防護服もなく入って行ったりと、まあ当時の認識とはその程度だったのである。「放射能はブラシでコスれば落ちる」という発想も、当時ではごく自然だったのかも知れないのである。

まあしかし、アメリカ人には大笑いできるギャグだろうが、日本人―特に被爆者の身内―にとっては、やはりいい気はしないだろう。日本向けには、考えて欲しかったところである。

さて、ラストのSFネタも賛否が分かれている。早い話、H・R・ハガードなどの冒険活劇、あるいは、宇宙に飛び出したとは言え、007・ジェームズ・ボンドものに宇宙人が登場するか、という事になるだろう。

まあこれは、宇宙人大好き…のスピルバーグ(「未知との遭遇」「E.T.」)ならではの展開で、また、かならずしも冒険活劇だからと言って、SFネタはご法度…という事もないのである。

山川惣治…という、わが国有数の冒険絵物語作家が書いた「少年ケニヤ」は名作だが、一応前半はアフリカの秘境を舞台とした冒険物語なのに、後半ではナチスが原爆を開発し、それが爆発して時空がねじれ、原始時代と現代とが繋がって恐竜が現れる…といったトンデモSF的展開となる(笑)。

そういう前例もあるから、ロズウエル事件やら、宇宙人と出会った…というアダムスキーの円盤遭遇事件などが世間を賑わした'50年代なら、さもありなん…と妙に納得してしまうのである。とにかく、1950年代とは、そうした時代だったのである。

―まあどうせ、盛大なホラ話、ここは難しく考えず、気楽に楽しめばいいのかも知れない。

1作目を知っている人にとっては、懐かしやカレン・アレンの再登場にジンと来るかも知れない。そして冒頭の倉庫にひっそりしまわれた<聖櫃>にニヤリとするのも一興。

65歳になろうとするハリソン・フォードは、さすがにアクションはやや控え目だが、よく頑張っている。冒頭、ソフト帽を被る姿がシルエットで写るシーンにはジンと来た。

そんなわけで、細かい点で難点はあろうとも、冒険大活劇のヒーローが、昔変わらぬ姿で元気に帰って来た…それだけで映画ファンは満足すべきである。ラストで、まだシリーズは続く…と匂わせているが、宇宙人まで出して、もうネタも尽きたのでは?次があるなら、出来ればSFネタは勘弁して欲しいところである。    (採点=★★★★

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(で、お楽しみはココからだ)
舞台となった1957年とは、ある意味で重要な年である。

この年の10月4日、世界で初めて人口衛星が宇宙に向かって打ち上げられた。宇宙時代の幕開けである。

打ち上げたのはソ連。人口衛星の名前は“スプートニク1号”。米ソがしのぎを削っていた時代に、先を越されたアメリカは大ショックを受けた。

ショックはまだ続く。その翌月11月には、史上初めて、生き物を乗せた人工衛星、スプートニク2号が打ち上げられる。乗っていたのは“ライカ”という種類のワンちゃん。

これがきっかけで、翌1958年、アメリカ航空宇宙局(NASA)が誕生し、アポロ計画のスタートへと繋がって行くのである(出典は"Wikipedia"による)。

これでお気付きだろう。この大イベントのキーワード、“ソ連との対立”、“宇宙への旅立ち”、“犬”が、それぞれ本作の重要なモチーフにもなっているのである。

“犬”について補足すると、冒頭パラマウント・マークに似た盛り土から顔を出したのがプレーリードッグ。続いて車に乗った若者たちがカーラジオから流している歌が「ハウンド・ドッグ」。インディ(これも犬の名前)の息子の名前が、やはり雑種犬という意味の“マット”(007第2作「ロシアより愛をこめて」の主題歌を歌ったのはマット・モンローである。関係ないか(笑))。

こうした、意識的な犬づくしは、恐らくは'57年という年の歴史に残る“ライカ犬”にちなんでいるに違いない…というのが私の独断。もう一つの根拠は、ライカ犬のアメリカでのニックネームが“マットニク”なのである(これも"Wikipedia"に掲載)。

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2008年6月15日 (日)

「僕の彼女はサイボーグ」

Sybogue (2008年・ギャガ/監督:クァク・ジェヨン)

「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介します」の韓国監督・クァク・ジェヨンが脚本・監督を手掛けた、タイムトリップ・ラブストーリー。

今回は舞台も、登場人物もすべて日本であり日本人。しかし登場人物のキャラクターや展開はほとんど前2作と同工異曲。そのシチュエーションに、タイムトリップとアンドロイド・ネタをまぶしただけ(て言うか、ほとんど「ターミネーター」+「猟奇的な彼女」であるが)。

設定は面白い。ことによったら、感情を持たないアンドロイド(タイトルやセリフに“サイボーグ”とあるが、どう見てもサイボーグじゃない。こういうデタラメなタイトルはやめて欲しい)が次第に学習し、人間の感情を学んで人間の主人公ジロー(小出恵介)との間に愛が生まれる…という感動の物語が誕生するかと期待した(「ターミネーター2」も、シュワ扮するT-800が人間の感情を学習する感動的な物語であった)。

ところが…タイムトリップの設定がムチャクチャであるうえに、アンドロイドの彼女(綾瀬はるか)が学習するプロセスも全然描かれてない。行き当たりバッタリの辻褄が合ってない展開に強引なオチ…と、突っ込みどころ満載。脚本がひど過ぎる

て言うか、この監督、タイムトリップ・パラドックスについて不勉強過ぎる。もっとロバート・A・ハインラインの「夏への扉」とか「輪廻の蛇」、広瀬正「マイナス・ゼロ」、藤子・F・不二雄「ドラえもん」、手塚治虫「キャプテン・ケン」等のタイムトラベルものの秀作を読んで勉強して欲しい。

(以下、ネタバレがあるが、予告編にも出て来るから隠すほどのものでもない。読みたくない人はパスしてください)
一番説得力のない展開…東京に大地震が発生し、彼女のおかげで危機一髪、助かるのだが、彼女が未来から来て、ジローに起こる災難を前もって知ってるなら、なんで地震発生の前にジローを田舎にでも疎開させない?

それどころか、ジローが、自身が体験した、他人に起きる事故や災厄に心を痛めているのであれば、地震が起きる事を知らせて、少しでも多くの都民を東京から脱出させておくべきではないか。たかだか自動車事故や立て篭もり事件で人助けするより、遥かに多くの人命を救えるではないか

機銃乱射事件で半身不随となるところを彼女のおかげで助かり、歴史が変わったが、いわゆるタイムパラドックスで言う、揺り戻し現象別の事故が起きる…という事はとりあえず説明されてるけど、それは通常、歴史上でほとんど目立たない程度のものであって、ジローが助かった程度であんな未曾有の大地震が新たに発生したりはしない。地震が発生した事は、未来においては歴史上の周知の事実であるはずなのだ。…で、結局半身不随にはならなかったのだから、以前に言ってる事とまた矛盾してる。支離滅裂である。

結局は彼女が地震で潰されてしまい、ジローが号泣する…という泣かせの展開にもって行く為の無理矢理な設定でしかない。
ついでに突っ込んでおくが、瓦礫に埋まった彼女を、ブルドーザーも使わず、素手で掘り起こして見つけてしまったのには唖然呆然。ジローもアンドロイドかいっ!

その後の展開も辻褄が合わない。壊れた彼女を数十年後まで保管して修復した…というのはいいが、2008年の過去に送ったアンドロイドの彼女はどうした?
修復した彼女は未来まで存在するのだから、それとは別に同じ顔したアンドロイドを作ったうえ、彼女を過去にタイムスリップさせなければ、ジローは半身不随か、大地震で命を失ってるはずなのだ。この大事な設定を未来においてまったく描いていないのもいいかげんである。

さらに、100年後において、自分と同じ顔したアンドロイドを見つけた生身の彼女が、2007年にタイムスリップしてジローに会う…という展開も、取ってつけたようで強引。

まあこれは許すとしても、その彼女が目撃した、荒っぽい誕生祝い(ケーキに顔を埋める、シャンパンをぶっかける)を、2008年に現れたアンドロイドの彼女がなんで知ってるのか?アンドロイドの記憶が生身の彼女に転送された事は描かれているが、その逆は絶対にあり得ない。

こういうズサンな脚本を、大勢の日本人スタッフが付いてて、誰も気付かなかったのか?

ジローが彼女に連れられ、10年前の自分に出会うシーンはそれなりにノスタルジックで感動的だが、田舎とは言え、1998年のはずなのに、まるで昭和30年代にしか見えない(ジローが隠していた宝物だってレトロ過ぎる)。

クァク・ジェヨンの演出は、とにかく荒っぽい。もう少しきめ細かく脚本を練り、二人の感情の変化を丁寧に描くべきである。

だが、本作で一番許せない点。それは、冒頭に現れた彼女が、いとも罪悪感なしに、窃盗したり、無銭飲食したり、人の家に石を投げ込んだりするシークェンスで、しかもそれを咎めるどころか、一緒になって犯罪行為に加担するジローの無自覚な行動には呆れる。これでは到底主人公たちに感情移入出来ないではないか。

うまく逃げおおせたけれど、もし警察に捕まったら、ジローの人生が台無しになるではないか。善悪が判断出来ないアンドロイドならともかく、普通の常識ある人間である彼女がなんでそんな無茶をするのか、まったく理解不能である。

ただでさえ、罪悪感なしに万引きをするバカな若者が多い現在、こういう行為をカッコいいかのように描くクァク監督の無神経さは耐え難い。これだけでも本作は大減点である。

クライマックスの大地震のシークェンスが終わった後、ダラダラと余計なエピソードを足したり、冒頭と同じシーンをこれまたダラダラとタレ流す等、とにかく脚本のグチャグチャぶりにはうんざりする。本年度のワースト脚本賞ものである。

まあ見どころを挙げるなら、迫力ある大地震のVFXと、綾瀬はるかのチャーミングなロボット演技くらいであろう。この2点でなんとか救われているが、全体的には今年のワーストを競う駄作である。プロデューサーの責任も重大だが、クレジットを見ればプロデューサーはなんとあの山本又一朗サンである。

かつて、長谷川和彦監督の傑作「太陽を盗んだ男」を手掛け、日本映画界期待の星だったのだが、その後はパッとせず、最近では「あずみ」シリーズを手掛けている程度。私は今でも期待してるのだから、もっと脚本に目を光らせ、ダメな所は徹底して直させ、ちゃんとした映画にしておくれよ。頼むから。      (採点=

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2008年6月13日 (金)

「ザ・マジックアワー」

Magichour(2008年・フジTV=東宝/監督:三谷 幸喜)

舞台・テレビで活躍する名脚本家、三谷幸喜の、「THE 有頂天ホテル」に次ぐ、4本目の劇場映画監督作品。

前作は興行的には大ヒットしたが、作品的にはゴチャゴチャし過ぎてしまりのない作品になっていた(どこがダメかは作品評を参照のこと)。

今回はその点を反省したのか、絶体絶命の危機を、知恵を絞って乗り越える…という、三谷コメディお得意のパターンを取り入れ、スリリングで楽しい作品に仕上がっている。出来としては4作の中では、1作目の「ラヂオの時間」に次いで面白い。

特に今回は、大の映画ファンである三谷幸喜らしい、映画にまつわるお話で、いろんな映画のパロディやらオマージュやらもてんこ盛り。また過去の三谷作品も彷彿とさせるストーリー展開で、三谷ドラマ・ファンにとっても応えられない快作になっているが、映画ファンなら、なおさらあちこちに仕掛けられたお楽しみを見つけて楽しむ事も出来る、1粒で2度も3度もおいしい作品に仕上がっている。

舞台は小さな港町・守加護(すかご)。暗黒界のボス・天塩(西田敏行)の愛人・高千穂マリ(深津絵里)に手を出してしまった、クラブ「赤い靴」のオーナー備後登(妻夫木聡)は、命の代償に伝説の殺し屋“デラ富樫”を探し出さなければならなくなる。期限が迫ってもデラを見つけ出せない備後は窮余の策として、無名の三流役者・村田大樹(佐藤浩市)を雇い、映画の撮影と称して村田をデラに仕立てあげ、天塩をだます作戦を敢行するが……。

まず楽しいのが、天塩に扮した西田敏行。「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドにソックリで、彼の演技を見るだけでも笑える。佐藤浩市も、クサい演技で映画会社から相手にされていない三流役者をコミカルに演じてこれも見応えあり。ちなみに、前作「THE 有頂天ホテル」では、佐藤は汚職事件で雲隠れの悪徳代議士、西田が自信喪失の芸能人…と、ほぼ役柄がチェンジしている点にも注目。

映画の撮影だと思い込んでる村田(佐藤)が、本物の暗黒街のボスを相手に、オーバーな演技で備後をハラハラさせる展開が楽しい。映画用語も交え、微妙にズレてる村田とボス一味との会話、それを慌てながら繕う備後…この掛け合いが三谷脚本の絶妙な味。たまたまロケ中のCM撮影班のカメラをちゃっかり拝借し、映画撮影である事を信用させようとするが、これが後の伏線になってる辺りもうまい。

(以下ややネタバレ、隠します)
ようやく、映画の撮影じゃない事が分かり、あとは知ったことかと憤然と街を出ようとした村田が、街の映画館で上映した、自分が映っているCMのラッシュ・フィルムを見て、感動のあまり泪を流し、もう一度、一世一代の大芝居で天塩たちを引っ掛けようとする展開は、「スティング」のパロディになるかと思ったが、さらに捻ったオチになっている。ただこのラストは、捻り過ぎてあまり成功しているとは言い難い。そもそも、あれだけボスを嫌っていたマリが、なんでボスの元に戻るのか釈然としない。

その後登場する本物のデラ富樫も、なんかパッとしない。ここにこそ、もっと意外な大物スターを使うべきではなかったか(例えば、ゴルゴ13を演じた千葉チャンだったら最高なのだが)。ヘナヘナと逃げて行くのも拍子抜け。そもそも本物のデラは、ニセモノがいると分かった時点で怒り狂ってるわけだから、もっと早く登場すべきではないのか。そこらが説得力に欠ける。
↑ネタバレここまで

そんなわけで、中盤までは面白かったのだが、最後のツメがやや物足りない出来になっているのが惜しい。

突っ込みどころもいくつかあり(例えば、CM撮影のラッシュ・フィルムは東京に帰って現像所の試写室で上映するもので、ロケ地の港町の、しかも映画館で上映する事などあり得ない)、またテンポが冗長で、2時間16分は長い。この物語ならあと30分は短く出来るはずである。
厳しい言い方になるが、三谷さんは脚本家としては超一流だが、映画監督としてはお世辞にも一流とは言い難い。撮影所で鍛え上げられた一流監督が撮ったなら、もっと引き締まった面白い作品になったはずである。

 
しかし、全編に散りばめられた映画ネタは、映画ファンにとってはやっぱり楽しいし、本筋のマイナスをカバーして余りある。故・市川崑監督自身が登場し、自作「黒い十人の女」のパロディ「黒い101人の女」を撮影しているシーンは映画ファン必見である。映画館で上映している古い映画「暗黒街の用心棒」は、「カサブランカ」と、それをパクった裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」のパロディである。ちなみにその併映作として上映されている「暗黒街」は、実際に東宝で作られた昭和31年の山本嘉次郎監督作品である(ポスターには、主演の鶴田浩二、三船敏郎の顔も見える)。その他、映画館内には「野獣死すべし」「100発100中」などの昭和30年代東宝アクション映画のポスターがあちこちに貼られている。

そして、村田が尊敬する「暗黒街の用心棒」の主演俳優、高瀬允が、この街で撮影しているCMのエキストラとして出演しているのだが、その老いた伝説の名優を演じているのが、懐かしや柳沢真一!昭和30年代、日活を中心に多数の映画に出演した俳優であり、またジャズ歌手としても有名。こういう老優を重要な役柄で起用する所にも、映画ファン・三谷のこだわりが感じられる。

そういうわけで、この作品は映画作品としては物足りないものの、昭和30年代の映画全盛期から映画を観ている人は特に必見の、映画への愛に満ち溢れている、映画ファンの為の映画なのである。映画作品としての採点は★★★くらいだが、そうした映画ファン向けサービスをプラスして、総合評価はおマケしておこう。  (採点=★★★★

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(さて、お楽しみはココからだ)
この映画のプロットは、“売れない役者が、ある策略の為、ニセモノになりすまし、地方都市にやって来る”というものだが、実は三谷幸喜作品には、同じプロットの作品が既にある。

平成12年にフジテレビで放映された「合い言葉は勇気」がそれで、昔、賞をとったことがあるが、いまでは落ちぶれている売れない役者、暁仁太郎(役所広司)が、本物の弁護士と間違われ、地方都市に連れて来られ、自然破壊を企む悪徳企業の手先の老獪弁護士と対決する…というストーリー。

Aikotoba_2暁を連れて来る、村の若い男(本作の備後の役回り)を演じたのが香取慎吾、暁に恋心を抱くヒロインを演じたのが鈴木京香。共に本作にもゲスト出演している。

さらに付け加えるなら、このパターンは三谷のオリジナルではなく、ジョン・ランディス監督のコメディ、「サボテン・ブラザース」(86)が元ネタ。

かつて西部劇のヒーローだったが、今では落ちぶれた俳優3人組が、本物のヒーローと間違われ、メキシコの小さな村にやって来て悪党と対決する…というストーリーで、このパターンはさらに1999年の快作SFパロディ「ギャラクシー・クエスト」にも引き継がれている。

ちなみに、「サボテン・ブラザース」の原題は“スリー・アミーゴス”と言い、この名称は、やはりフジテレビのヒット作「踊る大捜査線」の署長以下3人組のニックネームに流用された。…そのうちの1人を演じた小野武彦が、本作でやはり警察署長を演じているのもまた奇妙なめぐり合わせである。

Sabissinoha_2も一つ連想ついでに、旅芝居の一座が、一世一代の大芝居で、ヤクザのボスをまんまとダマす…という伝説的な傑作テレビドラマ「寂しいのはお前だけじゃない」(82・制作:TBS)とも、プロットはよく似ている。このシナリオを書いたのが、三谷幸喜がもっとも敬愛するシナリオライター、市川森一であり、主演が西田敏行である…というのもまた奇妙な縁である。

この作品とペアをなす同じ西田主演、市川森一脚本の「港町純情シネマ」がまた、舞台が港町映画にまつわるお話…である。あるいは三谷幸喜は、敬愛する作家の、この2本の傑作ドラマからヒントを得て、本作のシナリオを書いたのかも知れない。そう言えば、「港町-」の1エピソードで、上映中の「地獄の黙示録」を見て、西田がマーロン・ブランドの物真似をするシーンが妙に忘れられない。機会があれば、是非ご覧になる事をお奨めする。

DVD
「ラヂオの時間」











DVD
「合い言葉は勇気」











DVD
「寂しいのはお前だけじゃない」

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2008年6月10日 (火)

「丘を越えて」

Okawokoete (2008年・ゼアリズ/監督:高橋 伴明)

猪瀬直樹原作による、文豪・菊池寛を主人公にした小説「こころの王国」の映画化。

昭和初期、文壇の中心人物、菊池寛(西田敏行)が社長を勤める文藝春秋社に、小説家志望の細川葉子(池脇千鶴)が入社面接に訪れ、菊池に気に入られた葉子は、菊池の施設秘書として雇われる。やがて葉子は菊池に、そして同社の編集社員である朝鮮人・馬海松(西島秀俊)からも愛されるようになる。

菊池寛は、「父帰る」、「恩讐の彼方に」、「真珠夫人」等の作品で知られる文豪であるが、文藝春秋社の社長をやったり、設立間もない大映映画の初代社長を勤めたりと、経営者としての顔もある多彩な人物である。

西田敏行は、眼鏡をかけ、髪をモジャモジャにすると写真で見る菊池にそっくりである。業績が芳しくないのに仕事中でも将棋に夢中になってたり、オッチョコチョイな所もあったり、温情家で、部下が嘘をついてても、生活が苦しい事を知ると首にしなかったり…その魅力的かつ不思議な人物像を西田が好演。
そんな菊池に惹かれつつも、毅然とした生き方を貫く馬をも愛してしまう葉子を演じる池脇もなかなかの熱演。彼女が次々に着替える、昭和モダン・ガール・ファッションも見どころである(もっとも、そんな高級ファッションをどっさり買えるほど給料貰ってないはず…と突っ込みたくなるが(笑))。

特に楽しいのが、葉子がしょっちゅう口にする、囃子言葉風のセリフ。

「電信柱が高いのも、角のポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」、「有難(ありがた)山の不如帰(ほととぎす)」、「恐れ入谷の鬼子母神」、「びっくり下谷の広徳寺」等々…

フーテンの寅さんが口にしそうな、江戸下町情緒感あふれる名調子で、これは彼女が下町芸者の娘であるゆえ、周囲から自然に聞かされたセリフなのだろう。昭和初期を再現したセットや小道具も含めて、こうした細部にも気を配った丁寧かつ粋な演出が、作品に脹らみをもたらせ、観客を一時(いっとき)、心地良いノスタルジー世界に浸らせてくれるのである。

葉子の母親・はつ役の余貴美子も、下町芸者を小粋に演じていい味を見せる。ラジオ体操を三味線で伴奏するシーンも楽しい。編集長役の嶋田久作も含め、総じて役者がみんないい。西田は無論のこと、こうしたベテラン役者のアンサンブルを見るだけでも映画は充分楽しいのである。二村定一歌う「君恋し」等の昭和歌謡も中高年世代には懐かしいだろう。欲を言えば、もう少し当時の流行歌をふんだんに聴かせて欲しかった。

後半、雨の中を、葉子を待ち続ける菊池の姿が描かれるが、ここは菊池の豪放磊落なキャラクターとは少しミスマッチな気がする。また葉子を愛しながらも、朝鮮に帰って行く馬海松の心理的変化も判りにくい。せっかくのユニークな題材なのに、安っぽいメロドラマに堕した感があり、もったいない。

映画は、昭和6年の満州事変勃発のニュースがラジオから流れる所で終わる。この事変をきっかけに、日本は暗い戦争の時代に突入するのだが、そんな時代にあって、「丘を越えて」のような底抜けに明るい流行歌が作られていたのが面白い。この歌を主題歌とし、映画タイトルにしたのも、その明るさに庶民のエネルギーを象徴させたかったのかも知れない。

エンディングの「丘を越えて」を全員で歌い踊るシーンは、死んだ人も消えた人もみんな登場する、芝居で言うカーテンコールであり、これはこれで楽しいのだが、しっとりとした作品のムードに対し、そこだけが浮いてる気がするのがやや残念(私は題名を聞いて、てっきりこの歌を大ヒットさせた藤山一郎か、作曲の古賀政男の伝記映画かと思ったよ(笑))。

いっその事、全編を歌い踊るミュージカルにした方が、もっと楽しい映画になったのではないか。まあ真面目な高橋伴明監督では、そこまでのブッ飛びを期待するのは無理だったか。惜しい出来である。    (採点=★★★☆

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(付記)
藤山一郎の歌う「丘を越えて」は、1931年(昭和6年)12月にレコードが発売されている。またこの歌は、同じ12月に公開された映画「姉」の主題歌でもある。

ところが、この映画のラスト、満州事変が勃発したのは同じ年の9月18日。ニュースは遅くともその翌日までに放送されたはずである。

だとすると、この時点では、まだ「丘を越えて」のレコードは発売されていないはずである。従って、葉子とはつがニュースを聞いた後で、「丘を越えて」の歌を三味線の伴奏で歌うシーンは時代考証的にありえないと思えるのだが…。

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2008年6月 6日 (金)

「ミスト」

Mist (2007年・米:ディメンション・フィルムズ/監督:フランク・ダラボン)

「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」という2本のスティーヴン・キング原作による感動の傑作を監督したフランク・ダラボンの、長編としては3本目になるキング原作小説の映画化。

当然ながら、前2作のような感動作を期待したファンも多いだろうが、今回はキングの本領たるホラー映画。それも結構B級テイストであるので、期待した人は面食らうかも知れない(ていうか、グロいシーンも多いから、感動作と思って彼女を連れて入ったら張り手食らうかも知れない(笑))。

(ちなみに、「ショーシャンク-」でブレイクするまでのダラボンは、「エルム街の悪夢3/惨劇の館」「ブロブ/宇宙からの不明物体」「ザ・フライ2/二世誕生」などのB級ホラー映画の脚本家であったりする)

しかしさすがダラボン、並みのホラー映画にはしていない。極限状況下に置かれた人間が、どのように考え、行動し、どのように誤った道を辿るかを丁寧に、しかしかなりシニカルに描いて、観終わって不思議な余韻を残す異色作に仕上げている。

 
凄まじい嵐が吹き荒れた翌日、イラストレーターのデヴィッド(トーマス・ジェーン)は幼い息子を連れてスーパーへ買い出しに出掛ける。軍人たちが慌ただしく街を往来する不穏な雰囲気の中、スーパーの外が突然濃い霧に覆われ、その霧の中から得体の知れない生き物が現れ、人々を恐怖のどん底に陥れる…。

平和に暮らす町の人々を、得体の知れない生き物が襲いパニックになる…というパターンは、特に60~70年代を中心に沢山作られて来た。古典的な名作としては、ヒッチコック監督の「鳥」があり、この作品の恐怖のエッセンスを巧妙に取り入れたS・スピルバーグ監督の「ジョーズ」が大ヒットしてからは、熊だ、蜂だ、ミミズだ、ワニだと動物パニックものが大流行。この辺までは普通の動物だったが、やがては科学実験や廃棄汚染物質によりミュータント化した怪物が襲ってくる「モンスター・パニック」「殺人魚フライング・キラー」(今をときめくジェームズ・キャメロン監督!)、宇宙からやって来た生命体が成長したり、遺伝的変化を起こして人類を襲う「スピーシーズ」「遊星からの物体X」「ブロブ/宇宙からの不明物体」などの作品まで登場するようになる。
ちなみに最後の2本は'50年代に作られた低予算B級SF映画のリメイクであるが、「ブロブ」は前述のようにダラボンが脚本を書き、「遊星から-」は本作冒頭にポスターが登場し、住民の一人がその題名を口にする…といった事からも分かるように、ダラボン監督はこれらB級SF・パニック映画に密かなオマージュを捧げている気配がある。タコのような触手が店員を襲うシーンは、巨大タコがサンフランシスコを襲うハリーハウゼン特撮の名作「水爆と深海の怪物」を思い起こし、ニンマリさせられた。
このシーンがえらくチャチだと文句を言う人がいるようだが、ここはワザと'50年代SF風タッチを狙ってやっているのである。

つまりは、テイストとしては、昔のB級SF・ホラー・パニック映画の現代的復活を試みたと解釈出来、古いSF・ホラー映画ファンほど楽しめる作品なのである。それだけでも充分面白い。

しかしさすが過去にS・キング作品を秀作に仕上げたダラボン、只のホラー映画にはなっていない。

スーパーに閉じ込められた人々が、疑心暗鬼となり、狂信的な宗教信者、ミセス・カモーディ(マーシャ・ゲイ・ハーデン。怪演!)が人々を煽動し、狂気に駆り立てて行ったり、恐怖に耐えかねて自殺する者が出たりする。脱出をめぐっては、意見の対立がとうとう殺し合いにまで発展してしまう。…絶望が、人々を狂気に追いやってしまうのである。

怪物よりも、実は人間そのものが怖い存在なのである。…それは、宗教的な対立や、領土争い、エゴイズムが戦争を生み出し、罪のない人たちが殺されて行く、この歪んだ現代社会の縮図なのかも知れない。

デヴィッドは、人々を誘い、ここから脱出を図ろうとする。名作「ポセイドン・アドベンチャー」のジーン・ハックマン扮する牧師(宗教家!)のように。

(以下ネタバレに付隠します。映画を観た方のみドラッグ反転してください)
昔なら、その行動が正しかった事がラストに証明されてハッピー・エンドとなったはずだが、本作ではなんと、デヴィッドの良かれと思って行った行動が、ことごとく裏目に出てしまう。
ライトを付けた為に、虫や怪物を呼び入れてしまったり、瀕死の被害者の為に薬局に薬品を取りに行こうとして、却って犠牲者を増やしてしまったり、車で脱出を誘った時も、多くの犠牲者を出してしまう。

そして、宣伝で謳われた、衝撃のラスト15分。これぞ最悪の選択である。

伏線として、主人公の息子が父親に「約束して、僕を怪物に食べさせないで」と言うシーンがある。デヴィッドはその約束を守ったわけだが、それが悲劇を生んでしまう。なんともシニカルな結末である。

おまけに、霧が晴れて、軍隊に助けられた人々の中には、最初の方で子供が心配だからと、スーパーを出て行った婦人がいる。

…通常のパニック・ドラマでは犠牲になるはずの行動の方が、すべて正しかったという、なんとも皮肉なオチである。

↑ネタバレここまで

あのラストについては賛否両論のようである。映画にハッピーエンドを求める人にとっては、気分が悪くなるエンディングには違いない。

だが、私は原作を変えてまで、あえてあのラストを選んだダラボン監督の勇気を支持したい。

これがハッピーエンドだったなら、観客はスッキリした気分で映画館を後に出来るだろう。…しかしその場合は、時間が経てば忘れ去られてしまう只のパニック映画の1本になってしまうだろう。

賛否両論が起きるのを承知で、衝撃的な結末を用意する事によって、この映画は忘れられない問題作となったのである。

人間とは、常に間違いを犯す動物なのである。何が正しい判断なのか…それは誰にも分からない。

かの第二次大戦のミッドウェイ海戦において、司令官のちょっとした決断ミスによって、夥しい数の戦死者を出し、日本が敗戦への道を転がりだした歴史的事実。

あるいは、日常生活においても、例えば子供を遊園地に連れて行こうとしてガレージから車を出した時、誤って後輪で子供を轢き殺してしまったケース、または子供に海を見せてあげようとして、波に子供をさらわれて溺死させてしまったケース…等々。子供のためを思ってした行動が悲劇を生んだケースはいくらでもあるだろう。そうした事件で、最愛の子供を死なせてしまった父親は、残された人生をどう生きて行くのだろうか。それは地獄よりも過酷な人生なのかも知れない。

そういった悲劇が、我々の身にふりかからないとは、誰も言えない。そう考えたらゾッとする。これは映画よりもコワい

いったい人生とは、人間の運命とは、生きるとは何なのだろうか…。そういう事をふと思い起こさせ、みんなで考えるきっかけを作ったとしたなら、あの結末を用意した意義は十分にあったと言えるだろう。

そう思えば、ダラボン監督の秀作「グリーンマイル」で、奇跡を起こす大男、ジョン・コーフィが、裁判官という人間が下した誤った判決を運命として受け入れる、あの物語もまた、本作とはテーマとして繋がっているのではないだろうか。

フランク・ダラボン、まったくあなどれない監督である。いや、コワい人である。観ておいて損はない、さまざまな寓意が込められた、異色の問題作としてお奨めしたい。    (採点=★★★★☆

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2008年5月31日 (土)

「ランボー 最後の戦場」

Rambo (2008年・ミレニアム・フィルムズ/監督:シルベスター・スタローン)

S・スタローンのヒット・シリーズ「ランボー」の20年ぶりの続編。スタローンもう1本の人気シリーズの(今のところ)最終作「ロッキー・ザ・ファイナル」に続き自ら脚本・監督も手掛けている。

本作の舞台は、軍事政権が支配するミャンマー(旧ビルマ)。軍政府の圧政に対し、反政府運動が頻発している、政情不安定な国である(ジャーナリストの長井健司さんが殺害された事は記憶に新しい)。シリーズ3作目ではアフガニスタンに侵攻したソ連を敵に設定しており、本シリーズに限らないが、実在する国家を堂々悪玉に仕立てるのは、アメリカ映画ならではである。

物語は、タイでひっそり暮らすランボーの元に、アメリカからやって来たNPOキリスト教支援団が、ミャンマーで政府に迫害されている部族(カレン族)に医療品を届けるため、船で現地まで送って欲しいと依頼する所から始まる。支援団の一員サラ(ジュリー・ベンツ)の真摯な姿に心を動かされ、海賊の襲撃をかわしながら何とか彼らを目的地に送り届けるが、支援団は軍に拉致され、今度はその救出に雇われた5人の傭兵を現場へ送ることになり、ランボーはまたしても戦いに参加する事となる…。

「ランボー」1作目(82年)は、デヴィッド・マレルの小説「一人だけの軍隊」(原題:First Blood)の映画化である。ベトナム戦争で殺人マシンとして訓練され、過酷な捕虜体験がトラウマとなって、帰国しても心が落ち着く事のないランボーの孤独な戦いぶりを通して、戦争が終わっても、帰還兵の心の傷は容易に癒せない点を鋭く描き、アクション映画でありながらもこの映画は、鋭い戦争批判をも盛り込んだ秀作となった。

その後に作られた2作目、3作目は、マッチョなスーパー・ヒーロー・アクションの色が濃く、1作目のテーマはかなり後退して、ヒーローがただ暴れまわる大味なアクション映画に堕していた感がある。

ところが、4作目となる本作では、戦うべき相手が、人民を虐げる残虐な政府軍(現実のミャンマー軍事政権の実態をかなり反映)になった事で、方向性が1作目のテーマ(戦争の愚かしさと空しさ)にほぼ回帰したものとなっている。

それを端的に表わしているシーンがある。支援団を目的地に送る途中で、ランボーが海賊を一瞬のうちに皆殺しにした時、団のリーダー、マイケル(ポール・シュルツ)が「なんて事を!人を殺してはいけない」とランボーをなじる。それに対しランボーは、「これが戦争なんだ!」と突っぱねる。
ところが最後、おぞましい地獄絵図を体験したマイケルは、自分を殺そうとした兵士を殴り殺してしまうのである。―戦争は、人の心を荒廃させ、悪鬼に変えてしまうものである事を示す、実に皮肉なシーンである。丘の上からその姿を冷ややかに見つめるランボーに、マイケルはただ立ち尽くすのみである。

ストーリーはいたってシンプルである。捕らえられた人々を救出する為、ヒーローが大活躍し、最後に悪の軍隊は全滅する。…作り方によってはカッコいいアクションものになってしまう所であるが、スタローンはそんな作品にしたくない為、あえて殺戮シーンをリアルに、残虐に描いている。戦争で人を殺すという事は、これほどに残酷で、凄惨な事なのだ、という点を強調しているのである。

ところが、そのリアルに描かれた人体破壊シーンが、残酷で正視に耐えないとして、作品そのものを否定的に評価する人がいる(しかもおエラい評論家にも少なくない)のにはガッカリとした。

戦争で、弾薬が体に当たったら、爆薬が破裂したら、人体が破壊するのは当たり前である。平和ボケした日本で、フカフカした椅子に座ってデレーっと映画を観てるからそんな事が言えるのである。
今この時にも、世界のどこかで、無数に埋められた地雷で、いたいけな子供たちが足を吹き飛ばされている。米軍の投下する爆弾で、テロ攻撃で、人の体が肉塊となって飛び散っている。クラスター爆弾が1発炸裂したら、首が、手がバラバラに吹き飛ぶのである。…それが現実の姿である。

目をそむけてはいけない。そんな地獄絵を作り出しているのが、他ならぬ我々人間である事を認識すべきである(なお、スタローンはミャンマーの現状を徹底リサーチし、実情は映画よりもっと残酷だと言っている。映画に登場する手足がない子供たちは、実際に地雷で手足を吹き飛ばされたカレン族の子供たちである)。

「ソルジャー・ブルー」(70・ラルフ・ネルソン監督)という映画をご存知だろうか。ラスト間際、騎兵隊の兵士たちがインディアン部落を襲い、大虐殺が始まるのだが、女を裸にひん剥き、レイプする、乳房を切り取る、銃弾で人体が破壊される(子供の頭が銃弾で吹っ飛ぶシーンもある)とまあ、当時としては凄惨なシーンで話題を蒔いた。明らかにベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件をモチーフにしているのだが、正視に耐えないと言って否定する人などあまりいなかったと記憶している。本作に文句を言う人は、まずあの作品を見てから言って欲しい。

 
ラストで、ランボーは故国の古里に帰って来る。それは丁度1作目の冒頭シーンと同じである。だが、1作目では心に傷を負い、暗い眼をしていたが、本作ではずっと穏やかな眼になっている。歳を経て、故国を安住の地に選んだのであろうか。ランボーにとってミャンマーが最後の戦場となったのかどうか…。だが、世界から残酷な殺し合いが無くならない限り、ランボーに安住の地はないような気がしてならない。

ミャンマーに平和な日が来る事を祈りたい、これはそんな願いが込められた、スタローン老骨に鞭打った渾身の快作である。直視せよ。   (採点=★★★★☆

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(付記)
冒頭の製作会社ロゴと“ミレニアム・フィルムズ”という会社名、はて、どこかで見覚えが…と考えたら、思い出した。正月に観た秀作「勇者たちの戦場」を作った会社である。

allcinemaでスタッフを調べたら、やはり“製作”としてクレジットされている人たちのうち、アヴィ・ラーナー、ジョン・トンプソン、ランドール・エメット、ジョージ・ファーラ、トレヴァー・ショート、ボアズ・デヴィッドソン(なんと懐かしや、イスラエル版アメ・グラ「グローイング・アップ」シリーズの監督じゃないですか)といった面々が両方の作品のプロデューサーを兼ねている。

「勇者たちの戦場」も、帰還兵たちの心に負った傷の深さを描いている点で、「ランボー」1作目とテーマはかぶっている。戦闘シーンもかなりハードでリアルである(詳細は作品評参照)。

すなわち、「勇者たちの戦場」という、骨っぽい反戦映画(こちらも、今も多くの人たちが爆弾で傷ついているイラクが舞台)を製作した人たちが、本作にも関わっている事を知れば、余計本作のテーマが鮮明に浮き上がるであろう。「勇者たちの戦場」という映画の事も、是非頭に入れて欲しい。

その作品の監督が、アーウィン・ウィンクラーである。なんと、スタローンのもう一つのシリーズ、「ロッキー」全作のプロデューサーである(当然、「ロッキー・ザ・ファイナル」の製作総指揮も担当)。ますます両作品は縁が深いと言えるだろう。

 
(さらに、お楽しみはココからだ)

本作のリアルな銃撃戦描写で連想するのは、バイオレンス派の巨匠、サム・ペキンパー監督による西部劇の傑作「ワイルドバンチ」である。

おそらくは西部劇で初めて、銃弾が体に当たると体から血が吹き出るシーンが登場した作品である(前述の「ソルジャー・ブルー」のバイオレンス描写は明らかにこの作品の影響)。

拉致された仲間を数人で救出に向かう設定といい、政府軍の只中に乗り込み、相手の機関銃台座を奪って、主演のウイリアム・ホールデンが機関銃を乱射するシーンといい、銃撃で夥しい血糊が噴出するスプラッター描写といい、本作のクライマックスとよく似たシーンが続出する。ついでに主人公が老骨に鞭打って奮闘するジイさんである点(笑)も共通してると言えようか。

おそらくはスタローンも、この作品が頭にあったに違いない。歯を喰いしばって機関銃を乱射する顔つきまで似ている(笑)。

おまけに、あわやこれまでか…と思ったその時、反乱軍部隊が救援に駆けつける呼吸は、「駅馬車」(ジョン・フォード監督)に代表される、主人公が危機一髪の時に騎兵隊が駆けつける西部劇の典型パターンを思わせる。

そんな具合に、本作の展開はいろんな西部劇(「ソルジャー・ブルー」も含めて)からアイデアを頂いている気がするのである。

そう言えば、1作目にしても、いろんなサバイバル術と、ゲリラ的奇襲戦法で保安官たちを悩ませるランボーの行動が、グレゴリー・ペック主演の西部劇「レッド・ムーン」(ロバート・マリガン監督)の姿なきインディアン(当時はベトコンの隠喩と言われた)の行動と似てるな…と当時思った事を思い出した。ランボーは弓矢(これもインディアンの道具)も使うし…。ひょっとしてスタローンは西部劇ファン?(笑)

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2008年5月25日 (日)

「山のあなた 徳市の恋」

Yamanoanata (2008年・フジ=東宝/監督:石井 克人)

1938年の松竹映画「按摩と女」(清水宏・監督)のリメイク。

清水宏監督は、一般的には黒澤、小津、溝口ほどには知られていないが、実は伝説的な巨匠である。
なにしろ、小津安二郎、溝口健二監督をして“天才”と言わしめ、笠智衆も、彼の評価が不当に低い事を憤った。

近年ようやく再評価の兆しが見える事は喜ばしい。DVDボックスも出ているようだが、若手のポップな作風で知られる石井克人監督が清水作品に惚れ込み、興行的に当たり難いのを承知で、わざわざ本作をリメイクした…というのも近年にない快挙である。

ただ、本作は、リメイクと言うよりは石井監督が“完全カヴァー”と称しているように、元の作品の脚本はおろか、アングル、カット割までも完全にコピーした作品である。

そう聞くと、例のガス・ヴァン・サント監督のヒッチ作品のコピー作「サイコ」とか、森田芳光監督の「椿三十郎」などの(個人的には)失敗作を思い出し、嫌な予感を抱く人もいるだろう。…特に私など、そのオリジナルたる「按摩と女」が大好きときている(ビデオも持っている)。

ところが本作は、意外にも、良く出来ているのである。清水作品が大好きな私ですら、ジワっと感動したのである。「椿三十郎」はコキ下ろした、この私が…である(笑)。

その理由は何かと言うと、一にも二にも、清水作品の作風…あるいは、いわゆる“大船調”と呼ばれる、松竹伝統の人情ホームコメディのタッチを現代において完璧に、かつクリアに再現しているからである。

私は、オリジナルの「按摩と女」が好きで、ほとんど頭の中に映像が刻み込まれているのだが、この作品を見ている間中、記憶にある清水作品と、映像も、演技もまったくそのままで、まるでオリジナル作品に、着色して、デジタル・リマスタリングしたのかと錯覚したほどであった。

帰宅して、「按摩と女」のビデオを引っ張り出して再見したら、もうまったく、今観た映画そのまんまであった。―温泉旅館や町並みもまったく同じ(旧作を基にミニチュアを作りデジタル合成したそうだ)、なんとまあ、後ろを通るエキストラの通行人の歩き方や扮装、道端の犬の動きまでまったく同じである。いやはや、そこまでやりますか(笑)。

違う所は、当時は予算の関係なんかで描けなかったであろう、峠の道を行く馬車のロングショット映像や、若干の補足的シーン(旅館の位置関係など)程度である。

ただ旧作は、古い作品である為、また、当時はフィルム感度も音質も悪かった為、映像はややボヤけていて、音は聞き取りにくい所もあった。…それでも感動出来たのだからやはりいい作品なのである。

本作は、むしろそうしたオリジナル作品の映像・音質の劣悪な部分を、最新の技術でカヴァーし、グレードアップした作品なのである。―ほんわかと醸し出される、清水作品の空気や温かみはそのままに、グレードだけはぐんと向上している。
…これは言うなれば、クラシック音楽で編曲やオーケストラ編成はオリジナルそのままに、最新の機材を使ってステレオ・ドルビーサラウンド録音を行ったようなものである。これでは感動するのも当然である。

例えば、徳市(草彅剛)が、東京の女美千穂(マイコ)が道に立っているのに気付かずすれ違うシーン、オリジナルでは全然聞こえなかったのだが、新作では、美千穂がそっと後ずさる時に、かすかに砂利を踏む音が聞こえる。
目の見えない徳市が、その音を聞き分け、美千穂がいる事に気付く重要なシーンなのだから、この音は大事である。…こういう所に、石井監督が最新技術でカヴァーした意味があるのである。

石井克人監督は、清水宏作品の素晴らしさをこよなく愛し、最大のリスペクトをもってそれを現代に甦らせたのである。…それはまた、清水宏という伝説の埋もれた名監督の発掘でもある。
…私はその事に胸が熱くなった。よくぞ作ってくれたと、石井監督に礼を言いたい。

お話は、実に淡々として、のどかで、大した事件も起きない。まあ泥棒騒ぎもあるが、それすらものどかでユーモラスである。

小さな温泉町を舞台に、見知らぬ人同士が出会い、ちょっとした心の触れ合いと、ほのかな恋心の芽生えがあり、そして別れが描かれる。

さりげない仕草や、会話の中に、人の切ない思いが巧みに表現され、温泉の湯に浸かるように、心が癒される。

淡々と進むゆえ、若い人にはとっつき難いかも知れない。しかし、もし小津安二郎作品や成瀬巳喜男作品のように、やはり庶民の生活を淡々と綴った監督の作品にハマった方ならきっと感動出来るだろう。噛めば噛むほど味が出る、スルメのような味わい深い作品である。

けれどもそれは石井監督の力ではなく、オリジナルの清水監督の脚本・演出のうまさのせいである。この映画は、そういう意味では、クレジットこそ石井克人監督だが、まぎれもなく“監督=清水宏リマスタリング修復=石井克人”とクレジットしたい作品なのである。

徳市を演じた草彅剛、相棒の福市を演じた加瀬亮―いずれもオリジナル役を演じた徳大寺伸、日守新一と外見も雰囲気もソックリである。また東京の女役のマイコ(オリジナルでは高峰三枝子)も、いかにも戦前の古風な女の雰囲気をよく醸し出している。

 
清水監督作品では「按摩と女」以外に、あと「有りがたうさん」(1936)、「簪(かんざし)」(1941)が傑作であり、小林信彦さんは20世紀ベスト100本の中にこの3本を入れている。本作に感動した人は、機会があれば、是非これらの作品も探して観て欲しい。   (採点=★★★★☆

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2008年5月23日 (金)

「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」

Therewillbeblood (2007年・ミラマックス=パラマウント・ヴァンテージ/監督:ポール・トーマス・アンダーソン)

「マグノリア」で一躍注目された俊英、ポール・トーマス・アンダーソン監督の、「パンチドランク・ラブ」以来5年ぶりの問題作にして傑作。本年度のアカデミー賞で主演男優賞、撮影賞を受賞。

原作は、社会派の作家、アプトン・シンクレアの「石油!」(1927年)。アンダーソン監督は、これを元に大幅に改定した脚本を自ら手掛け、実に骨太の人間ドラマに仕立てている。

20世紀初頭のカリフォルニアを舞台に、しがない鉱山労働者の男、ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)が、石油採掘に野心を燃やし、やがて石油層を掘り当て、名声と富と権力を手にするまでを描く。

 
こういうタイプの映画は、ジェームズ・ディーン主演の名作「ジャイアンツ」(56・ジョージ・スティーヴンス監督)とか、「オクラホマ巨人」(73・スタンリー・クレイマー監督)などのように、ハリウッドでいくつか作られてきた。

しかし、「ジャイアンツ」では、“アメリカン・ドリーム”の象徴であった、ジェームズ・ディーン扮するジェット・リンクの成功話が、ここでは徹底的にエゴイズムと醜い欲望にひた走り、破滅に向かう、ダニエルという男の破天荒な生きざまに置き換わっている。

土地を安く手に入れる為、巧みに嘘をついたり、養子にした子供を交渉の場に付き添わせて同情を買わせたり、ある時には暴力を振るったりする。

子供の耳が聞こえなくなり、足手まといになると汽車に乗せて遠方に追いやったり、事業の為になるなら、忌み嫌うインチキ牧師・イーライ(ポール・ダノ)の教会に入信し洗礼を受ける事も辞さない。

人間的には、とんでもない男なのだが、しかしアンダーソン監督は、こんな男を否定するでもなく、肯定するでもなく、冷徹に観察している。

これらを、石油利権や、宗教的対立から、不毛の国家間紛争を続けている現代社会への痛烈な皮肉と取れない事もないが、アンダーソン監督の目はそんな目先のあてこすりには留まらず、更にもっと先―人間という存在そのものの不可思議さ、愚かしさ―をも見据えている。

エゴと野望にひた走る一方で、事故で死んだ労働者には手厚い配慮を見せたり、子供が油井火災に巻き込まれた時は、必死になって走り、助けようとする。

一見矛盾するようだが、彼の心の奥底には、どこかで人間を信頼したい…という思いがあるのかも知れない。
彼に従う仲間たちとは心が通い合っているし、子供といる時の父親としての表情は本物のようである。

従って、途中から彼の前に現れた、“弟”を自称する男の正体が分かった時は、強烈な憎悪を示す。…それは、裏切られた無念さの裏返しなのかも知れない。

そうした矛盾も含めて、彼は怪物であると同時に、常に過ちの歴史を繰り返して来た“人間という存在そのもの”の象徴なのだろう。

養子である息子が大きくなって現れた時も、心が通うことは遂にない(ここで息子との会話が、聾唖である故、手話通訳を介して行わなければならず、コミュニケーション不全のメタファーともなっている所もうまい)。

 
彼は、人生においては大きな成功を収め、富も権力も手に入れた。
しかし、心が満たされる事はなく、心の隅のどこかにポッカリと空洞になった闇を抱えた、ある意味では悲しい人生である。

それで想起するのは、オーソン・ウェルズ製作・監督・主演の映画史に残る傑作「市民ケーン」である。

新聞王・ケーン(O・ウエルズ)もまた、巨万の富と名声と権力を得る事には成功したが、死の床において、遂に心の空洞を満たす事もなく、寂しい人生を終える事となる。―その空洞を埋めるピースが“バラのつぼみ”であった。この映画は、私の大好きな作品の一つである。

 

ラストの、イーライの体から滲み出る真っ黒な血は、冒頭シーンの、地面から滲み出る黒い石油を思い起こさせる。

「それは血になるだろう」という原題の意味もここで明らかになる。

ちなみに、このタイトルの由来は、旧約聖書の「出エジプト記」第7章からの引用で、映画「十戒」の中でも描かれている、モーゼが杖をガンジズ川に立てると、川の水が血のように、真っ赤に変わって行く、あの有名なシーンを示す言葉である。

清らかな水をも、濁った血に変えてしまうように、ダニエルの意識の底に沈殿していた底知れぬ怒りが、血を呼び起こし噴出させたかのようである。

ダニエル・デイ=ルイスの鬼気迫る演技には圧倒される。主演男優賞を総ナメしたのも納得である。が、2時間38分という長尺にもかかわらず、ほとんどダレる事なく、渾身の力を込めたアンダーソン監督の演出も完璧の一語。これは、本年を代表する傑作である。必見。

 
エンド・クレジットに、“故・ロバート・アルトマンに捧ぐ”と献辞が出るが、アルトマン作品へのオマージュ作「マグノリア」からわずか8年。先人をリスペクトするだけに留まらず、遂に敬愛する名匠を乗り越えるまでに至ったアンダーソン監督の並々ならぬ努力と成果には素直に拍手を送りたい。

 

…それに引きかえ、である。わが国の期待される監督たちは何をやっておるのか

森田芳光、本広克行、樋口真嗣…いずれも、先人・黒澤明をリスペクトし、オマージュを捧げる気持ちはあるようである(本広は「踊る大捜査線 -THE MOVIE-」「天国と地獄」のオマージュをやっている)。

が、彼らの黒澤明に寄せるオ